2003年の大みそか、総合格闘技戦で屈辱のTKO裁定を受けたIWGP王者の中邑真輔が、雪辱を期して中3日で臨んだ1・4東京ドーム。
 対するNWFヘビー級王者の高山善廣は、そんな中邑を激しい顔面蹴りや膝蹴りで徹底的に潰しにかかった。

 ボブ・サップvs曙で話題を集めた'03年大みそか、中邑真輔は『K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!』(ナゴヤドーム)のセミファイナルに、IWGP王座のベルトと共に登場した。
 初めての総合格闘技戦となるK-1戦士アレクセイ・イグナショフとの一戦は、グラウンドで優位を保ちながら膝蹴り1発でダウン。すぐに立ち上がって試合継続の意思を見せたものの、レフェリーの判断により即座にTKO負けを宣せられた。
 あとになって中邑と新日側の抗議によりノーコンテストと訂正されたが、いったん黒星を付けられたという事実は重い。
 「これが永田裕志のような10年選手であれば、プロレスファンは全面支持に回ったのでしょう。しかし、このときの中邑はデビューから1年半にも満たない新人に過ぎず、プロレス界代表とまでの信頼はなかった」(プロレスライター)

 イグナショフ戦の直前、天山広吉を破ってIWGP王座を獲得してはいたが、その試合の評価はいま一つ。試合は終始、天山ペースで進みながら唐突に腕十字で極めたフィニッシュに、観客はただ呆気に取られるばかり。デビュー最短での同王座獲得記録となったが、中邑への祝福ムードは薄かった。
 「プロレスのスキルにおいてはまだまだ未熟でも、格闘技的センスに恵まれた中邑であればPRIDEやK-1のブームに対抗できる。そんな思いがあったからこそプロレスファンも王者として受け入れたという、ある意味で妥協のようなところがありました」(同)
 そんな中邑が肝心の格闘技戦、それも世間からの注目の集まる大みそかの大一番で負けに等しい結果しか残せなかったとなれば、周囲の視線は当然、厳しいものとなる。そこからわずか中3日で臨んだ1・4東京ドームのメインイベントは、中邑にとってまさに針のむしろではなかったか。

 対するは高山善廣。
 高山もやはり'03年大みそか、『猪木ボンバイエ』(神戸ウイングスタジアム)のメインでミルコ・クロコップとの対戦が発表されたものの、ミルコの負傷(実際は契約トラブル)によりキャンセルとなっていた。

 '01年のPRIDE参戦を契機にノアを退団し、フリーとなった高山はこの頃、鈴木みのるとの外敵軍を結成して新日マットを席巻。天山の前のIWGP王者でもあった。
 「当時の高山は、ノアと新日の両メジャーと良好な関係を続けながら、同時に総合格闘技のマットにも上がっていた。かように幅広く活躍した選手は歴代でも高山ぐらいのものでしょう」(スポーツ紙記者)

 高山がフリーで成功を収めた理由としては、もちろんその日本人離れした身長2メートル近い巨躯と、インパクト抜群のイカつい容貌が最大の魅力ではあったが、それだけではない。
 「よく“プロレス頭”などと言いますが、高山の場合はそれが抜群に優れていた。何かにつけて“俺が一番”と思いがちなレスラーたちの中にあって、高山は自分を客観視できるから、ヒールであれ、ベビーフェースであれ、自分の立場をしっかりと把握した上で、必ずファンが期待する以上の働きを見せてくれる。総合格闘技においても高山自身は、早い段階から『技術的に通用しない』との自覚があったようですが、それならばとドン・フライ戦のようにド迫力の殴り合いという技術以外の部分で魅せてくれる。ボブ・サップ相手に真っ向から勝負してきれいに一本取られたのは、高山の他では数えるほどしかいませんよ」(同)

 それだから、団体側も高山を積極的にブッキングしたくなる。
 「当時、高山の取り巻きが『新日なんてどうにでもなる』と息巻いていたのを見掛けたこともあります。新日側が高山を使いたいがために、何でも要求をのんでくれるという意味だったのでしょう。高山本人は至って誠実な人柄なんですがね」(同)

 そんな高山が、中邑戦に向けて用意した回答は“徹底的なたたき潰し”であった。イグナショフ戦の後遺症で腫れた中邑の顔面を、それが分からなくなるほどまでに蹴りまくり、ボディーに膝を突き上げる。
 当然、中邑は何度もダウンを喫するが、それでも立ち上がり続けることで格闘技戦では発揮できなかったプロレスラーの頑丈さと根性を見せつけた。
 最後は高山のエベレスト・ジャーマンのフックが甘くなったところを切り返して、チキンウイング・アームロックで勝利を収めた中邑。
 デビュー当初から“選ばれし神の子”として英才教育を受けてきた中邑は、この日、高山により初めて真のプロレスラーとして生命を吹き込まれたのだった。