左から山本貴光、吉川浩満

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 『あの夏の子供たち』『EDEN/エデン』を監督したフランスの女性監督ミア・ハンセン=ラブが、本年度アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされた女優イザベル・ユペールを主演に迎え制作した最新作『未来よ こんにちは』が公開中だ。

参考:森直人の『未来よ こんにちは』評:哲学教師ナタリーが示す、ままならない人生のやり過ごし方

 2016年、第66回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)に輝いた本作。充実した毎日を送っていた哲学教師のナタリー(イザベル・ユペール)は、ある日突然、夫からほかに好きな人ができたと告白されてしまう。夫との離婚をはじめ、母の他界、仕事の問題、教え子との不和など、様々なトラブルに巻き込まれていくナタリー。そんな彼女が、どんな状況の中でも希望を見出し、未来へと進む模様が描かれていく。

 本作には、人生のテーマと向き合うナタリーの生き様を映し出す中で、ジャン=ジャック・ルソー、ブレーズ・パスカルといった歴史に名を残す哲学者たちの言葉や、哲学教師らしいウィットに富んだ会話のやりとりが登場する。すべての人間に平等に訪れる人生の折り返し地点。時間の経過と共に大切な人が離れていってしまう中、人は“老い”や“孤独”といった人生のテーマとどのように向き合っていくべきなのか。

 リアルサウンド映画部では、「哲学の劇場」を主催する山本貴光氏と吉川浩満氏にインタビュー。本作が示す哲学的テーマを紐解きながら、日常の中に存在する哲学について語ってもらった。

■吉川「時代が哲学を必要としているのかも」

ーー吉川浩満さんと山本貴光さんは“哲学の劇場”というサイトを運営されています。2005年を最後に運用が止まっていたようですが、ここ数年で更新を再開されていますね。

吉川浩満(以下、吉川):再開した理由については、特に哲学的な意味があるわけではなくて……(笑)。お互いにずっと忙しくしていて更新が止まっていたのですが、初心に帰るというか、もっとウェブを活用しなきゃダメだねって山本くんと話しまして。ただ、ここ最近トークショーやインタビューの声が掛かることが増えていて、ひょっとしたら時代の要請みたいなものもあるのかもしれないな、とは思っています。

山本貴光(以下、山本):そういえば、ドナルド・トランプが大統領に就任してから、アメリカでの本のベストセラーリストにも変化が起きていましたね。例えば、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』やドイツに生まれ、後にアメリカに亡命した哲学者のハンナ・アーレントの『全体主義の起原』など、普段はあまりベストセラーランキングで見かけない本が上位に入って話題になりました。オーウェルの本は小説ですし、アーレントの本は20世紀前半にドイツやイタリアで生じた全体主義を分析した政治学の本ですが、いずれも人びとに、自分が生きている世界のあり方を再考させるという点で哲学に通じる内容です。こうした本がいま改めて読まれるのも、吉川君が言った時代の要請に通じているように感じます。

ーー社会が重要な局面を迎えた時や、大きな出来事が起きた時に、哲学は役立つのでしょうか?

山本:目の前でなにかが起こった時、生じた現象だけを見るのではなく、そもそもその現象はどんな条件で生じたのかというふうに、当たり前だと思っていたことの足元を見直すのが哲学の営みです。例えば、美術といえばいろんな絵画や作品があるわけだけれど、そもそも美とはなんだろうかと考えるわけですね。同じように、社会とか組織とか個人とか、なんでもよいのですが、特になにかがうまくいかなくなってガタガタしているような場合、普段は気にしていない足元を見直す必要が出てくる。当たり前だと思っていた物事を成り立たせている条件を見直すわけです。例えば、政治でいろいろな問題が生じてきた場合、起きていることに対処する必要もあるけれど、それと同時に、民主主義というけれど、そもそも民主ってなんだっけと問い返したり、歴史の経緯を確認してみたりすることも必要になります。こういう場面では、哲学の発想やものの見方は有効だと思います。

吉川:ある種、交通事故みたいなものですよね。大統領の就任も、6年前の東日本大震災も。山本くんは社会にたとえて語っていたけれど、一般的なライフイベントの中に哲学が登場することは多いと思います。たとえば、実際に交通事故が起きて、入院して会社をクビになったとします。そういう時は自然と自分の価値や存在理由を考えてしまいますよね。「こんな生活をしていていいのだろうか」「いままでの人生はなんだったんだろうか」とかね。そういう意味では、もしかすると哲学が出てこない方が人は幸せなのかもしれません。全てに満足していたら、疑問も持たないし考える必要もないですから。でも、人生はそんなに甘くない。それまでの生き方や考え方が崩されるような出来事が起きて、それまで信じていたものが自明性を失った時、凡人の私たちが哲学者にヒントを求めるのは理にかなっていると思います。

■山本「問いを投げかけてくる映画」

ーーおふたりは映画にはどんな印象を持ちましたか?

山本:私は、女性の哲学教師という設定が面白いと思いました。男性中心の発想で組み立てられた社会や組織のなかでは、ただでさえ女性には困難の種が多いのに、主人公のナタリーは次々とトラブルに見舞われちゃう。認知症気味のお母さんとの付き合い、パートナーの不倫、教科書を出している出版社とはビジネスの問題があり、アレルギーがありながら猫とも付き合わねばならず、敬意をもって慕ってくれる教え子とも根本では意見があわない。自分が死ぬ以外のトラブルはほぼ体験しているんじゃないかというくらい(笑)。数々の艱難辛苦を乗り越えて進んで行くという点では、時代も場所も主人公も全然違うけれど、古代ギリシアの『オデュッセイア』に重なっても見えました。トロイアに戦争で遠征したギリシア軍の英雄オデュッセウスが故郷まで帰る物語ですね。道中はモンスターだらけで、あちこちで引き留められるし、船は難破するし、部下は食べられちゃうし、帰りつくまで10年もかかるし、帰ってみたらオデュッセウスはもう死んだということになっていて貴族たちが奥さんにいい寄っているしと、およそ考えられるトラブルを味わい尽くす冒険譚。単なる連想に過ぎないけれど、この映画は現代版『オデュッセイア』だな、と思いながら観ていました。ちなみにオデュッセウスは智将とも呼ばれた人物で、哲学者とまでは行かないまでも、物事の本質を見抜く知の力で切り抜けるんだよね。

吉川:いま山本くんが言ったようなことを、人生の折り返し地点を舞台に描いているのがリアルだな、と。個人的な人生だけでなく、今は先進国の社会もちょうど折り返し地点にあると思います。我々が年齢を重ね、人生のピークを迎えた時、折り返した先の人生はどうなってしまうのか。日本のような社会ではなおさら、この作品を身近に感じられるのでは。

ーー哲学を題材にした映画は他にもあると思いますが、なにか違いを感じましたか?

吉川:哲学書や哲学者が効果的に使われている映画はよく見かけます。でもこの作品は使い方というレベルではなく、生きていくなかで知らない間にみんな哲学を営んでいる、ということが自然に描かれていました。哲学を少しでも知っている人だったら、登場する哲学書や哲学者の名前だけでも十分楽しめますし、何も知らない人が観たとしても、人生は哲学的テーマの連続なんだなと感じてもらえるはずです。

山本:そう思って観ると、たくさんの問いを投げかけてくる映画だよね。冒頭にさりげなく出てくる「人は他人の立場になれるのか」というフレーズからしてもそう。これって、生活でも仕事でも友情でも恋愛でも、私たちが日々いろんな場面で遭遇する出来事の根底にある問題だものね。劇中の人物たちにとってもそうだし、映画を観ている私たちにとってもそう。例えば、夫の不倫が露呈した時、ナタリーはこんな行動をとったけど、あなたならどうするかな、というように。出来事の渦中にありながら、一歩引いた見方ができるか、別の立場からも見られるだろうかと、なにか試されているような感覚を持ちました。

吉川:そうそう、答えを示すような映画ではないんだよね。様々な問題を描きながらも、決定的な解決方法は描かない。逆に鑑賞者側に問題を委ねて考えさせる。まさに我々はそういうふうにして人生を生きているわけだから、そういう意味で、この作品は哲学を題材にしているだけでなく、それ自体じつに哲学的な作品だなと思いました。

山本:日々の生活について、こんなふうにも足元を見直せる、とそっと教えてくれている。政治や哲学の話を中心にするのではなく、それもまた生活の一部。あくまで我々が生きる日常に寄り添う形で示されています。それに終わり方も良いですね。さっきこれは問いかける映画だと言いましたが、なにか分かりやすい答えを出すのではなく、余韻を残しながらナタリーの人生から離れていく感じで終わります。最後にスカっと物事が解決する映画は、痛快で楽しい反面後で忘れちゃうことも多いのですが、こういう問いが残り続けるタイプの映画は、いつまでも記憶の奥底にあって、ときおりふと思い出したりします。その後、彼女はどうしてるかな、とか。

■吉川「問題を緩和するのは物事の見方」

ーー劇中には、ルソーやパスカルなどの言葉や哲学書が効果的に使われていました。

吉川;ナタリーは、ルソーと境遇が似ている部分もあったと思います。カント主義者の夫と過激派の教え子、思想が両極端にあるふたりに挟まれているのですが、ナタリーはどちらの意見も理解しています。でも、片方にだけ肩入れすることはできない。ルソーという人も理性と感情に引き裂かれるようにして生きた哲学者でした。晩年は自分を追い詰めすぎたのか、変人扱いされていたそうですが。そもそも旦那も教え子も哲学していないんですよ。自分はこうあるべきと考えを固定化している時点で。確固としたイデオロギーや宗教を持っているのでないかぎり、どちらかといえば我々はナタリーのような立場に立つことが多いと思います。

山本:よくも悪しくもイデオロギーや宗教のように「自分はこうである」と言える固定した拠り所を持っていないからね。

吉川:人生の問題を緩和させるのに必要なのは頭の良さではなく、物事を様々な角度から捉える見方だと思います。絶対に譲れない部分がありながらも、常にいろんな形でナタリーは問題と向き合っていきます。あらかじめ自分の中に指針を決めてしまうと、どうしても杓子定規に行動してしまう。彼女は、その時々に起こったことについてその都度考え、柔軟に対応することができていました。

山本:私にできることは全力でやるが、自分にはどうにもできないことに関しては穏やかに付き合っていこうとしていましたね。その境界線を混同すると、解決できない問題に振り回されて余計に困ったりもします。努力で変えられること、そうではないことの判断は、頭の良し悪しではなく、ものの見方の問題です。

ーーなるほど。常に一歩引いた位置から物事を考えていく、と。

山本:劇中何度か現れていた、ナタリーが哲学教師として授業をする場面はまさにそうしたトレーニングの場でした。例えば、ルソーの一節を解釈させる授業では、学生にテキストを読ませ、めいめいが今の知識や経験でその言葉にどんな意味を与えるのか、議論させる。あるいは、公園で古代ギリシア人のように寝そべりながら授業をする場面では、真理について討論していましたね。問いを設定して、互いの考えを出し合うことで、自分とは違う立場やものの見方を知ることができる。討論によって他人の立場に立つシミュレートもできるわけです。学問を大きく二分すると一方には自然科学があり、他方には人文学と呼ばれる領域があります。哲学や歴史や文学などを含む領域ですが、人文学では人間の理解がテーマです。古い文章を読んで解釈したり、テーマについて討論して考えを交換したりという技法は、まさに人間を知るためのものでした。

吉川:挑発的な要素もありましたよね。いま山本くんが挙げた真理についての討論で、地球が公転していることは疑いの余地がない、バスティーユ襲撃やホロコースト、さらにシェイクスピアの偉大さも疑う余地はないと言い切るシーン。あれは歴史修正主義者やネット右翼のような人たちへの挑発かもしれない。あと、元教え子のグループのアジトで、ユナボマー(セオドア・カジンスキー)やスラヴォイ・ジジェクの本を書棚に見つけたナタリーが「こんなの読んでるの?」と嫌悪感を示すシーンも可笑しかったね。

山本:山本:そうそう。あと、本で言えば、ナタリーがエマニュエル・レヴィナスの『困難な自由』を読んでいたのも。見ようによっては、彼女はいろんなものから自由になったとも言えるけれど、さてどうなのかという状況で『困難な自由』を読んでいる(同書自体はユダヤ教についての論考)。ナタリーはあの本をどんな心境で読んでいたのだろうね。

■山本「フランスと日本は対比的」

ーー実際、フランスでは高校生の頃から哲学の授業があるんですよね?

山本:フランスの高校(リセ)では最終学年で哲学を勉強すると言いますね。哲学的な議論や考え方を経験した後で、文系も理系もそれぞれの道に進んでゆくわけです。こういうことを言うと“出羽守(ではのかみ)”みたいで嫌ですが、日本とは対比的ですね。一応、倫理のような科目はあるし、そこには哲学者も登場するけれど、冒頭で話したような本来の哲学とは大きく違います。足元の土台を考えるというよりも、礼儀やモラルなど、人としてどう生きるかのほうに重心があるように見えます。それはそれで不要なわけじゃないけれど、おそらく哲学だったら礼儀が必要とされる理由から考えるでしょうね。

吉川:哲学が専門学科に押し込められているのが残念だよね。

山本:これは余談ですが、学術の歴史を辿れば、今でいう国語、数学、理科、社会といった科目に相当する学問はすべて哲学の領域でした。例えば古代ギリシアのアリストテレスのような哲学者は、万学の祖と呼ばれたりするように、諸学を探究していた(その様子は『アリストテレス全集』で確認できます)。日本語では「哲学」と訳されている「フィロソフィー」という言葉も「知ることを愛好する」という意味の古いギリシア語(ピロソピア)に由来するように、別に身構えるようなものではなかったんですよ。いろんな物事に好奇心を向けて「なんだろう?」と知ろうとするのがフィロソフィーでした。

ーー母親の葬儀でパスカルを引用していたのも印象的です。

山本:パスカルは、今でいう科学者であり哲学者だった人ですね。他方で宗教の重要性も説いていました。彼が生きた17世紀は、後に「科学革命」の時代と呼ばれたりもします。従来は教会の僧侶が学問も担っていて、信仰と知はそれなりに調和していたところ、科学が進展して両者の溝が深まった時代でもあります。ガリレオの裁判でよく知られている天動説(教会の公式見解)か地動説(科学の知見)かというせめぎ合いはその象徴のような論争でした。ナタリーが引用したパスカルは、そんな時代に信仰と知をどうやって折り合うかを考えた人でもあったわけです。先ほど吉川君が、ナタリーはイデオローグのふたりに引き裂かれていると言いましたが、葬儀の場面は、知と信仰のあいだに置かれている状況でもありました。

吉川:アドルノやホルクハイマーなど、フランクフルト学派の人びとの教科書をつくっているところもナタリーのキャラ付けによく効いていると思います。60年代の学生運動の時に矢面に立たされた人たちで、思想的には完全に左派なんですけど、でも過激な学生からみたらブルジョア的に見えてしまった。権威主義者からも、ラディカルな若者からも反感を買う人たちだったんですよ。まさにファビアンが、ナタリーに「言葉と行動が一致していない」と指摘していましたが。

山本:それからとても印象的だったのは、ナタリーとファビアンが車に乗っているシーンで流れるウディ・ガスリーの歌です。実はこれが本作の要なんじゃないかと勝手に思っています(笑)。子供が、僕のパパが鉄を作っているから君のパパは飛行機で空を飛べるんだと言っている。ちょっとオオゲサに聞こえるかもしれないけれど、人は互いに意識したり気づいたりしていなくても、お互いがやったことの組み合わせで生きているよね、ということですね。いいことも悪いことも含めて、誰かの行いが別の誰かにつながって私たちの生活や社会は回っている。この歌も、強く主張を伝えるというよりは、ふたりの人物がなにげなく聴いているという形で示されています。

ーー作品の中に生きるヒントのようなものが描かれているんですね。

山本:ナタリーは言ってみればどんどん孤独になっていきます。でも彼女は様々な場所に出かけ、議論を交わし、前進していきますよね。いわばオープンマインドな生き方を見せてくれている。今の自分にとって異物に感じられるものでも、すぐに拒絶せず、まずは話してみる。そして理解し、できたら意見を交換する。これも哲学の大事な営みのひとつです。

吉川:“おひとりさま”になった時、山本くんが言ったようなことができないと、いわゆる“老害”と呼ばれるような存在になりかねない。問われているものを感受し、自分の頭で考えて答えをだしていかないと、周りが嫌になるか、自身のことが嫌になってしまうと思います。そういう意味では、哲学的な見方を知るにはうってつけの作品だと思いますね。

山本:ちょっと大まかな話ではありますが、日本では、しばしば中高年の男性が社会的に孤立する傾向にあると指摘されていますね。例えば、長年勤めた企業を退職するような場合、参加する人づきあいの場も変化します。そうした場面でどうやって新しいコミュニティーに参加したり、新たな人間関係をつくったりできるか。もちろん独り自足して楽しく生きられるならそれもOKなんだけど、それだけでは済まないような場合、どんなふうに他の人びとと交わるか。そういう意味でも、この映画に描かれるナタリーの生き方にはヒントがたくさんありそうですね。(泉夏音)