塵劫記顕彰碑(常寂光寺)(より)


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吉田光由の挑戦状?『新篇塵劫記』(1641年)

 前回は『塵劫記』の魅力と著者・吉田光由を紹介しました。

 実に多くの実用問題・数学パズルそして見事なイラストの豊富さといった『塵劫記』の特徴は、数学入門書として子供から大人まで数学の大衆化に貢献しました。

 全国で次々と海賊版『塵劫記』が出されるなか、寛永18(1641)年、吉田自身による刊行が最後になる『新篇塵劫記』が世に出ます。

 吉田はこの本の巻末に答えのない12の問題を提示します。吉田は次のように述べています。

 「・・・簡単に云わんとする所を書けば、世の中にはさほど数学の力もないのに塾をつくり、多数の人を教えている人がいる。教わる人から見れば、自分の師が力があるかどうかわからないだろう。そろばんの計算が速いからといって数学の力があるとは決まっていない。ここに法(答えまでの道筋)のない十二問の問題を出しておくから、これで自分の師を試してみればよい」

 和算における答えのない問題は遺題と呼ばれます。言うならば遺題は作者から読者への挑戦状です。

『新篇塵劫記』の遺題


 この中で難問が第十問(上図、左から2番目)です。

 「直径が百間の円形の屋敷を、図のように、平行な二本の弦によって分割し、三人にその面積が二千九百坪、二千五百坪、二千五百坪になるように分けたい。このときの弦の長さ及び矢の長さを求めよ」

 この問題を解くには四次方程式を解くことが必要とされ、当時では誰も解けない問題でした。

 このように答や法を示さない遺題ははその後の数学者に大きな影響を及ぼすことになります。こぞって遺題の解答を発表し、さらに自らも遺題を発表することが流行っていったのです。

 問題を解き、難問を作る、そしてさらに高度な解法を発見していくという数学の循環が始まったのです。これが「遺題継承」と言われる日本独自のシステムです。

 遺題継承によって、江戸の人々の数学レベルは着実に上がっていきました。中でも方程式の解法がメインテーマでした。宋・元時代の中国で発達した天元術(1変数方程式の解法)を理解する人が現れます。

天元術(1変数方程式の解法)

 天元術における未知数(xのこと)は「天元の一」と呼ばれます。問題を未知数(x)の方程式に帰着させることができれば、方程式を解けばよいことになります。

 この場合の方程式はxの1次方程式、2次方程式、3次方程式といったような高次方程式ですが、どうやってxの高次方程式を解いていたのでしょうか。

 「2次方程式の解の公式」のような方法(代数的解法)ではなく、数値的解法です。そのために用いられる道具がそろばんと算木と算盤です。これらも元は中国で発明されました。

 算木を用いて数を表します。赤は正数、黒が負数を表します。横に置くと5、縦に置くと1を表します。この算木を並べるのが算盤と呼ばれる格子が描かれた紙や布です。

 方程式の数値解法に用いられるのがホーナー法です。連載「知って得する、いかに早く計算するか」では、かけ算の回数を最小限にする多項式の計算方法がホーナー法であることを紹介しました。

 方程式f(x)=0の解がx=pであるとは、多項式f(p)の値が0であることを意味します。ここで多項式の計算が必要になり、ホーナー法が用いられます。高校数学で登場した「組立除法」のアルゴリズムで説明できます。

組立除法とホーナー法


 江戸時代は、そろばん・算木・算盤そしてホーナー法を用いてxの高次方程式を解いていました。

 1830年に英国の数学者ホーナー(1786-1837)の論文で紹介されたホーナー法ですが、その以前に中国と日本ではホーナー法が知られていたことになります。

 江戸時代前期に天元術を熱心に研究した数学者が大阪で活躍した沢口一之(生没年未詳)です。機械的に方程式を解くことができる天元術を駆使して、沢口は『改算記』(山田正重著、1659年)と『算法根源記』(佐藤正興著、1666年)の遺題を解いてみせました。

 そして、1670年に沢口一之は『古今算法記』を著します。1変数方程式の天元術をマスターした沢口は、多変数方程式を解かなければならない難問15題を巻末に遺題として載せたのです。

関孝和の鮮烈デビュー

 数学の発展に必要なのが伝統です。前回紹介したように、吉田光由に影響を与えた数学が存在したおかげで傑作『塵劫記』が誕生しました。

 『塵劫記』の驚異的普及が遺題継承を生み出しました。沢口一之が活躍した次期はまさに遺題継承による発展期で、新しい問題が量産された時でした。当時の数学の最高レベルが1670年の『古今算法記』でした。

 かくしてブレークスルーはその4年後に訪れます。1674年、1冊の本が日本中に衝撃を与えます。『発微算法』と名づけられたその本には、沢口の『古今算法記』の15題の遺題の解答が淡々と書かれてあるではないですか!

 そも猛者こそ32歳の関孝和(1640頃-1708)です。彼も少年時代に『塵劫記』で数学を学んだ1人でした。関孝和自身、最初にして最後の刊行物です。

 この『発微算法』の中で関孝和は画期的発明を行いました。多変数方程式を紙に書いて解く「傍書法」です。

 それまで方程式を解くには、算木と算盤を用いる必要がありました。それも1変数方程式だけしか解けませんでした。

 それを紙の上に字を書くことだけで、多変数の方程式も解けるようになったのです。天元術よりもシステマチックで洗練された技術は世界に先駆けた画期的大発明でした。

 関孝和を奮い立たせたのが沢口一之の遺題だったということです。世界に先駆けた数学の偉業は傍書法だけにとどまりません。ヨーロッパから隔絶した日本で、関孝和の快進撃が始まります。次回に続きます。

 

筆者:桜井 進