毎週水曜日にお届けしている徹底解説自衛隊(前回はこちら)、これまで自衛隊誕生に始まり、ソ連、中国の進出を阻んできた実力、そして国内での災害援助活動などを詳しく解説してきた。

 第4回となる今回は自衛隊初の海外派遣に至った歴史に迫る。

 国連は1945年の創設以来今日まで、国際の平和の維持および安全の維持増進のため国連憲章の定めるところに従い、強制措置(軍事的および非軍事的)、平和維持活動、人道援助活動、軍備管理・軍縮など、さらには安保理決議に基づく海賊対処活動等、多ような活動を実施している。

 冷戦末期になると米ソの対立色は薄まり、米ソの協調機運が少しずつ出てくるとともに、国際社会が協調して内戦の収拾や復興支援に当たる機運の高まりとともに国連による各種活動が活発化していった。

 ことに冷戦終結後は、国際社会の安全保障環境の不安定化・悪化に伴い国連が行うこれら活動の範囲や役割の拡大、精緻化、頻度の増大等が顕著となった。

 このような環境の中で、自衛隊が海外における活動に関わっていった過程とその実績について概観する。

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海外における初の自衛隊の活動

 冷戦終末期に起こった湾岸戦争は、その直後のソ連邦崩壊による冷戦終焉とともにその後の国際社会の安全保障環境の変化とその対応について、特に我が国の対応について転機となった戦争である。

 米ソ両首脳が冷戦終結宣言(1989.12.2)を行った翌年、1990年8月2日にイラク軍が隣国クウェートへ侵攻して始まった湾岸戦争は、安保理による武力行使容認決議(1990.11.29)を受けて米英仏を含む37か国(北米、南米、ヨーロッパ、アジア、オセアニアおよびアフリカ)の軍隊で多国籍軍を構成してイラクに対する攻撃を開始(1991.1.17)した。

 戦争は軍事力において圧倒的な優位を誇る多国籍軍がイラク軍を圧倒し、イラクは国連安保理決議を受諾(1991.4.6)して停戦に合意し、1991年4月11日に同決議は発効して湾岸戦争は終結した。

 一方、我が国にとって湾岸戦争とは何であったか?

 米国は開戦前に同盟国や中近東諸国などに共同行動を呼びかけ、多くの国がこれに賛同した。米国は同盟国としての我が国に対しても資金拠出と共同行動を求めたが、我が国は資金拠出(合計135億ドル―当時の日本円で約1兆8000億円)に応じたのみだった。

 自衛隊の派遣のみならず民間の航空機および船舶による物資や人員の輸送の要請など、人的貢献は一切拒否した。

 我が国は安全保障では同盟に基づく米国に多くを依存しつつ、経済的繁栄を謳歌し、その源泉とも言うべきエネルギー源としての原油を中東からの輸入に多くを依存(注:1990年で約72%であったが徐々に増え2000年代には90%近くまで増加し現在は概ね85%前後で推移している)している。

 原油生産および価格の動向並びに輸送ルートの安全確保は我が国の産業・経済に多大の影響を与えるものであって、湾岸戦争を傍観者でいることはできない状況にあった。

 かねて国連中心主義を唱える我が国であったが、それにもかかわらずその当時自衛隊を海外で活用する法的枠組みも整備されておらず、またそのような訓練もしていなかったことと、海外派兵につながるとの根強い反対意見があったことおよび国内の反自衛隊アレルギーもあって、当初から自衛隊活用の選択肢はなかった。

 このような「金銭的な支援はするが危険を伴う人的な貢献はしない」という我が国の態度は、世界から蔑みの目で見られ著しく威信を低下させる結果をもたらした。

 さらに、外国から見れば明らかに軍隊であり、同等またはそれ以上の能力を有する自衛隊を国連決議の下であっても活用しようとしない日本は、人的貢献をした多くの国に対して「日本は独りよがりな国である」との印象を与えたことも事実である。

 日本政府はこのような反省を踏まえ、人的貢献をするため、現行法制の枠内で自衛隊の活用ができる方途を検討した結果、イラクが国連安保理決議を受諾し停戦が発効した後、防衛庁長官は海上自衛隊に対しペルシャ湾における機雷除去命令を発出した(1991年4月24日)。

 これは自衛隊法に定める自衛隊の任務の1つである「機雷等の除去」(自衛隊法第99条、現在は第84条の2)を根拠とするものであり、「ペルシャ湾における我が国船舶の航行の安全の確保」を目的とするものであった。

 海上自衛隊は、総員511人、掃海母艦1隻、掃海艇4隻、補給艦1隻からなる部隊を編成し、ペルシャ湾に向けて4月26日に日本を出発した。海上自衛隊にとって初の海外における実任務であった。

 海上自衛隊は8か国(米、英、仏、独、伊、ベルギー、オランダおよびサウジアラビア)の海軍と協同でペルシャ湾における機雷除去作業を実施し、6月5日から9月11日までの99日間で合計34個の機雷処理を実施した。

 危険を伴った機雷処理任務を完遂した海上自衛隊の活躍は、関係国および機雷処理に当たった各国海軍からも高く評価された。

国連の平和維持活動と自衛隊

 国連創設から2016年までの71年間に国連は合計62件の平和維持活動(PKO)を実施している。そのうち冷戦終結(1991年12月)までの46年間に23件、冷戦終結後から2017年までの25年間に39件のPKOを実施している。

 冷戦後におけるPKO件数は冷戦間に比べ約3倍の頻度で行っている。このことは冷戦後における安全保障環境の不安定化の増大に伴い、これに対処するための国際社会の関与が増大していることを如実に物語っている。

 このような国際情勢の中、それまで我が国は憲法上の問題などから自衛隊が関わる活動に対する忌避機運が強かったが、冷戦終末期および冷戦終焉後の国際環境と国連や世界各国の対応など、日本の目に見える国際貢献が問われる事態が生起してくると、自衛隊の活用も含めた国連の諸活動への積極的参加の必要性が認識されるようになった。

 特に、先に述べたペルシャ湾における海上自衛隊による機雷除去活動が契機となって我が国の国際貢献が問われる事態となった。

 自衛隊の海外における活動の法的枠組みを整備して、国際社会の平和と安定のために相応の役割を果たしていく必要があるとの判断から、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(以下「PKO法」)を制定(平成4年6月19日)し、事後この法律を根拠に自衛隊等による国際的な貢献活動が可能となった。

 しかしながら自衛隊の派遣に当たっては、憲法上許される範囲の活動とする必要があることからPKO参加5原則として次を定めた。

(1)紛争当事者間の停戦合意があること
(2)活動する国および紛争当事者がPKO活動および我が国の参加に同意していること
(3)PKOが中立的な立場を維持すること
(4)上記原則が満たされないときは撤収すること
(5)武器使用は必要最小限のものに限られること

 以下平成4年(1992年)から平成28年(2016)年までの間に自衛隊が参加した14件のPKO活動について概観する。

1.国連カンボジア暫定機構への自衛隊派遣(1992年9月〜1993年9月)

 自衛隊は、PKO法制定後今日までに14件の国連平和維持活動に参加してきている。最初に自衛隊を派遣したPKOは、平成4年9月から同5年9月まで実施した国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC: United Nations Transitional Authority in Cambodia)への自衛隊の派遣である。

 内戦終結後のカンボジアが新政府を設立するまでの間、国連が暫定的に統治するもので、軍事部門は32か国から派遣された約1万6000人で構成された。

 我が国は国連の要請に基づき、陸上自衛隊を第1次として平成4年9月から平成5年3月まで、第2次として平成5年3月から9月まで、停戦監視要員8人と施設整備大隊600人をそれぞれ派遣した。

 海上自衛隊は、陸自要員や装備・施設並びに必要物資等の海上輸送を担当し、航空自衛隊は、要員や装備・資材などの空輸を実施したほか概ね週1回の頻度で日本とカンボジアの間を連絡便として運航した。

 UNTACへの自衛隊の派遣は、PKO法成立後初の派遣であり、陸自および空自にとっては初の海外派遣であった。

 PKO法成立までには幾多の困難があったが、法律成立後直ちに自衛隊は行動に移した。自衛隊はPKOへの初の参加であり、PKO法による自衛隊の活動内容や場所および武器使用基準は、諸外国の派遣部隊とは異なる極めて制約されたものであった。

 一方で、自衛隊の海外派遣に反対の立場を貫いてきた野党の国会議員やジャーナリストからは、現地視察をして辛辣なコメントをするものもあったが、自衛隊は与えられた任務を粛々と実施し、カンボジアの国家再興に寄与した。

2.モザンビーク国際平和協力業務(1993年5月〜1995年1月)

 次に自衛隊を派遣したのは、モザンビーク国際平和協力業務に対してである。我が国はモザンビーク再興のための物品などの輸送業務および選挙監視業務を支援した。

 自衛隊はこのうち各国から派遣された司令部要員200人のうち5人の司令部要員を、そして輸送調整並びに実施部隊として第1次(1993年5月〜同年12月)、第2次(1993年11月〜1994年6月)および第3次(1994年6月〜1995年1月)にわたりそれぞれ48人、合計144人が派遣された。

 司令部要員は民家を借り上げ自炊しながら、輸送隊要員は天幕生活をしながら、誠実に職務を遂行した。

3.ルワンダ難民救援国際平和協力業務(1994年9月〜同年12月)

 アフリカの内陸中央部に位置するルワンダ共和国は、かつてのベルギーによる植民地支配時代の人種差別政策に端を発するルワンダ現地住民であるフツ族とツチ族の民族対立が続くなか、1962年にツチ族を中心とする国家として独立した。

 その後フツ族によるクーデター(1973年)によりフツがツチを支配する国家となった。このような経緯を経て1990年に内戦が始まり、1994年4月6日のフツの大統領搭乗機爆破に端を発してフツによるツチの大量虐殺が始まり、多数の難民が周辺国へ流出した。

 この状況で国連は平和維持軍(PKF)を派遣し、1994年7月に全土を制圧し、新政権が発足して内戦は終結した。

 我が国はPKFとは別に国連難民高等弁務官(UNCHR)からの要請に基づき、我が国の主体的な判断によりPKO法に基づく初の「人道的国際救援活動」を実施することを決定し、ルワンダ難民救援国際平和協力業務として、1994年9月から同12月までの間自衛隊を派遣し、医療、防疫、給水、空輸などの救援活動を実施させた。

 自衛隊はこの派遣の間、医療活動として延べ2100人を診察治療(70件は手術)し、難民キャンプの防疫を実施し、延べ7万トンの給水活動を行い、ケニアのナイロビとザイールのゴマ(難民キャンプ近傍)間(約1000キロ)の定期空輸便運航により延べ3400人および物資510トンの輸送を実施した。

 自衛隊は、危険で困難な環境下ですべての職務を安全かつ確実に実施して帰国した。これにはこれにまつわる後日談を、ジャーナリストの高山正之氏が『週刊新潮』2011年6月9日号のコラム「変見自在」に書いておられるのでその中から引用する(注:…は一部省略の部分)。

 【「……難民キャンプにもゲリラが出没する。エイズは流行る。危険千万で、内戦に責任のある西欧諸国も尻込みしていた」

 「……装備は小銃の他機関銃一丁と殆ど丸腰で放り出した。自衛隊はそんな悪条件下でも任務を無事勤め上げたうえ、武装ゲリラに襲われたNGOの日本人医師の救出もやってのけた。お前らは死ねばいいのに、なに勝手をやるのか。外務省には期待外れだった。共同も朝日新聞も自国民救出など越権行為だと非難した」

 「期待に背いたことへの報復は陰険だった。任務終了後、帰国には民間機を利用し、その際は制服の着用は仰々しいので認めない。各自私服で帰れと。お前らは目立つことはないという意味だ。誰しもましな着替えなど持っていない」

 「年の押し詰まった12月27日、ロンドンから日航機に搭乗したとき周囲の乗客はひどい身なりの集団にちょっと驚いた。それが異郷の地で頑張り抜いた自衛隊員と知るのは機が公海上に出てからの機長アナウンスでだった。『このたびは任務を終え帰国される自衛隊員の皆様、お国のために誠に有難うございました。国民になり代わり機長より厚くお礼申し上げます。当機は一路日本に向かっております。皆さま故国でよいお年を迎えられますよう』」

 「異形の集団を包むように客席から拍手が沸き、やがて機内いっぱいに広がっていった。」「機長は乗客リストを見て自衛隊員の帰国を知り『日本人として当然のことをしただけ』と語る」

 「成田に着いたあと65人の隊員はコックピットの見える通路に整列し機長に向かって敬礼した。」】(以上高山正之氏のコラムから抜粋)

筆者:田中 伸昌