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新しい日

 ここイラクのクルド人たちは火によって春を迎える。ペルシャ叙事詩の「王の書」の物語にその起源がある。

 悪魔に憑りつかれ、両肩に殺しても再生する蛇を生やされたダッハークと呼ばれる暴君がいた。彼は2匹の蛇の餌として毎日2人の子供を犠牲にした。その邪悪さに太陽も姿を隠し、世界は闇に包まれた。

 この暴君を鍛冶屋のカワが打ち破り、火をくべて勝利を民に知らせたところ、闇の世界に光が戻ったとういう英雄譚だ。このカワの火がクルド人にとっての「ノウルーズ(新しい日)」の始まりである。

 イラクのクルド人地域では毎年3月21日、大小様々な松明に火を灯して新しい日の到来を祝福する。またノウルーズがある3月は、民族的機運が高まる月でもある。

 クルド民族蜂起記念日(1970年3月5日)、クルド自治地域協定締結記念日(1991年3月11日)、クルド独立運動の父ムスタファー・バルザーニーの誕生日(1903年3月14日)、毒ガス兵器により多数のクルド人が虐殺されたハラプチャの悲劇(1986年3月16日)、とクルドの歴史的民族闘争に関する祝日も多く、民族独立闘争における夜明けの月でもある。

 これまで、クルド人にとっての暴君ダッハークはサダム・フセインだった。そしてその後は領土問題、石油資源問題で対立が続くイラク中央政府がそれに変わり、さらに現在はあくまで一時的だがイスラム国(IS)がそれに代わっている。

 実は昨年のノウルーズは祝福の火が灯されなかった。イスラム国に拘束されていたクルド自治政府軍の兵士がノウルーズ直前に公開処刑され、政府は喪に服すために予定していた式典を中止したのだ。そのため、今年ノウルーズが祝われたのは久しぶりのことだ。

 2014年6月にイラク第2の都市モスルがイスラム国によって陥落してから2年9か月が経過し、イラクにおけるイスラム国との戦闘は終盤に差しかかっている。戦線はモスルの西岸部まで進んだ。

 戦闘を担っているのは主にイラク中央政府軍のみとなり、クルド自地政府軍はこれに介入していない。クルド自治政府としてはいったんその役目を終えたという安堵感もあるのか、今年のヌールーズの式典は各地で盛大に執り行われた。

 3日間のヌールーズ休暇中は民族衣装を纏い、山へピクニックに出かけるのがクルド人の習わしだ。街の中も祝賀ムードに包まれており、数十キロ先で激しい戦闘が続いているとは思えないほど穏やかである。

対イスラム国戦線最終段階、モスルの現在は

 クルド自治区とは対照的にモスルでの戦闘は激しさを増している。依然として40万人の市民が残っているとされる都市部での戦闘は多数の避難民や犠牲者を出しながら進められている。

 現在、クルド自治区でこうした避難民の医療支援を行っている我々のところにも支援を求める声が多く届いている。

 モスル西岸部に住んでいた男性は、空爆で家族を失い、本人も両足に深刻な負傷を負った。車椅子の上で激しく身を捩らせながら、「娘が3人死んだ。1歳と2歳半と14歳だった。大事な娘を亡くした。遺体はそこに残されたままだ」と泣いた。

 また、ある避難民は「モスルで終末を見た」と語った。

 3月24日モスル出身の政治家は軍事作戦によって数百人の市民が犠牲になっているため、即時作戦の中止と現行作戦の実施方法を見直すようイラク中央政府と連合国側に要請した。多くの市民は軍事作戦の進展を喜んでいるが、それは同時に多くの悲しみも生起させている。

イスラム国支配下における生活、偏った視点から

 軍事作戦の進展によって解放地区が増えたことで、そこに住んでいた人々の話や、押収された資料などからイスラム国支配下での人々の生活がより明らかになってきた。

 イラクでも日々、処刑、人身売買、遺跡破壊、財産収奪など、その邪悪さ、残虐さを伝える情報が入ってくる。事実そうだと思う。

 ただ、そうしたものだけでは、神話上の暴君ダッハークのようで、イスラム国の手触りが今一つ掴めなかった。

 私はNGOワーカーとしての倫理観に欠けているのかもしれないが、そういう情報よりも、邪悪な組織イスラム国にどの程度の寛容性、さらに言えば人間味があったのか関心を持つようになってしまった。

 いつだったか、拘束されたあるイスラム国の兵士が頬を打たれ、怯えて、泣きながら尋問を受ける動画をネットで見てからそうなったのかもしれない。

 いずれにせよ、話をしてくれた避難民の話はどれも一様にイスラム国に対する憎しみと怒りに満ちたものだが、その中からイスラム国は○○まではしなかったというところを私がかなり無理やりに抜き出したものを誤解を恐れずに記載したい。

 まず、先ほど3人の娘を失い、両足を負傷した避難民について述べたが、彼は「空爆により両脚に重度の骨折をした。その際イスラム国の兵士によって応急処置が施された。しかしその処置が適切ではなかったため、脛部の骨が曲がった状態で固定されてしまい、現在その矯正が必要だ」と語った。

 また医師としてモスル市内の病院に勤務していた50代男性はイスラム国支配下の行政についてこう語る。

 「過去に一度でも地方選挙であれ、国政選挙であれ立候補した者は、当選、落選を問わず背教者として処刑された。ただし、彼らは一般行政職員には手を出さなかった」

 「公務員の給与につては、寄進省は2か月ほどで給与の支払いがストップしたが、私たち医師などは保健局からの給与が2015年3月まで支払われていた。イラク政府がイスラム国の管理下にある地元の送金業者を使って送金していたからだ」

 「給与が手元まで回ってきた時も目に見えて給与が減額されていたということはなく、以前とほぼ同額を受け取っていた。電気局については2015年8月まで給与の支払いが行われていた」

 「イスラム国のメンバーが男女をきちんと分けているか監視するためによく病院も訪れたが、私が医師であるからか一定の敬意をもって私に接していたように思えた。また出生届、婚姻届け、死亡届も彼らの発行する公式文書と公印に則って行われていた」

 「私の住んでいたモスル東岸部のマーリーヤ地区ではイスラム国の厳しい監視のためか清掃局の仕事が行き届いており、衛生的には以前よりも良くなった。また喜捨の名を借りた徴税も行われていたが、それも私個人が経営する診療所にやって来て、不動産価格を査定し、年間で7万8000イラク・ディナール(7000円)が課されたほどだった」

 また、彼は教育についてこう語った。

 「教職員はそのまま以前の職員が教壇に立った。教育カリキュラムも当初の1年は従来通りに行われた。私の子供も1年目の間は学校に通わせた。しかし、2年目からは教科書が変わり、彼らの主義や思想が色濃く反映されたものになった」

 「それで子供たち自身も学校に行きたくないと言い出したので、私もそれに同意した。教職員たちは新カリキュラムを教えるために教鞭をとり続けるよう強制されたが、子供たちは欠席したからといって咎められることはなかった」

 モスルから避難してきた女性は、最初の1年目についてこう語った。

 「受給資格のある者には年金も支払われていた。しかし、イラク中央政府からイスラム国の行政機構に加担した者については、その者の給与をカットすると通達があって以降、多くの職員が公務を続けることをためらった。事実、公務を続けたために給与がカットされた者もあった」

 「大学教員などは、イスラム国側から講義を続けよとの通達があったが、イスラム国の支配下で行われる大学教育は公的に認められるものとはならないだろうからと教壇に立つことをやめたが、それが咎められることはなかった」

 モスルの経済状況が変化し出したのは公務員給与の送金が停止してからだと言う。住民の6割が公務員というほど、公務員の割合が高い同地域では給与の送金が停止されて以後、通貨の流通が大きく滞ったため、物価が下がったという。

 トマトや玉葱1キロが1000ディナール(=100円)だったものがそれぞれ250ディナール(=25円)に、1キロの羊肉は1万5000ディナール(1380円)だったものが1万ディナール(=920円)に、という具合だ。

 ある避難民によると、食料不足が深刻になったのはモスルの奪還作戦の前段階として食料の流通経路が断たれてからだったという。テレビなどでは政府によりこれからモスルに制裁が課されるため住民に食料の備蓄が呼びかけられた。

 その後、実際に物価は高騰し、30個1パックの卵は3000ディナール(280円)だったものが2万5000ディナール(2300円)にまで値上がりした。そのため貯蓄のない者は1日1食のみの生活を余儀なくされたという。

 ちなみに兵役についてはどうたったのかを尋ねると、「強制ではなく、あくまで志願制だった」と皆が答えた。また最初の1年間のみは自由意志による退役も認められていたということだ。

イスラム国の兵士となった青年

 昨年末、解放された地域で押収された資料の中にイスラム国兵士の手書きの名簿が見つかった。15歳から20代前半までの青年およそ50人がそこに記載されていたが、この中に名前が記載されていたある青年の話をロイター通信 が報じていたので少しご紹介したい。

 「私の大切な家族へ。あなたがたのアッラーに誓ってお許しください。私のことを喜んでください。喪服を纏い悲しまないでください。あなたがたに私の結婚の世話をお願いしていましたが、それは叶わずじまいでした。アッラーがお望みになれば私は天女を娶るでしょう」アラーゥ・アブドゥ・アル=アキーディー

(中略)

 報告によると、この手紙は昨年(2015年)イラク治安部隊を対象とした自爆攻撃を実行するために基地を出発する前に別れの手紙としてしたためられたものであるという。この手紙はイスラム国の公式文書のフォームに記載され、封筒に入れられていた。

 封筒にはモスル西岸部にある彼の実家の住所が記載されていた。青年の親戚の話によると、彼の父親は息子の決断についてそれは酷く悲しんだという。しかし、イスラム国から無理に息子を引きはがそうした場合の顛末を恐れて何もできなかったそうだ。

 彼が実家に帰ってくることは稀であり、最後に帰ってきたのは、製油所があるモスル南部の街ベイジーで自爆攻撃を実施することを伝えに来た時だった。ベイジーは当時イスラム国がイラク軍に対して度重なる攻撃を行っていた場所である。

 押収された名簿の中にアシール・アリーという名が記載されていた。大きな目の上の睫毛は濃く、微笑んでいる青年の写真がそこに添付されていた。彼の父によると彼は科学が好きで、テレビ番組のナショナルジオグラフィックを見るのが好きだったそうだ。

 また、近くの川で泳いだり、魚を取ったりすることも好きだったし、学校から帰った後は農園を持つ叔父の手伝いをよくしていたそうだ。また彼はとても照れ屋でやせっぽちでとても戦闘に参加できるようなタイプではなかったという。

 そのため2015年に彼が学校から戻らなかった時、というよりも実際は同級生7人とイスラム国に加わるために家を出ていたのだが、その時とても大きな衝撃を受けた。父が息子の安否を知るために、別の地区にあるイスラム国の支部を訪ねたところ「刑務所にいれるぞ。」と脅された。

 結局、彼は息子が生きている間に会うことはできなかった。数か月後、彼の家の前にトラックが止まり、数人のイスラム国兵士が訪ねて来た。そして兵士たちは息子の名前が書いてある1枚の紙を彼に渡した。息子は既に亡くなっていたのである。

 父は遺体安置所で息子の遺体を引き取った。髪は長く伸びていたが、髭は生えておらずまだ幼い様子を残したままだった。しかし彼の腕には砲弾の破片が残っており、胸には焼け焦げた跡があった。

 その場にいた兵士によると彼はバアシーカ(モスルの北東部に位置)で空爆にやられたという。兵士の1人が息子を指して「彼は英雄だった」と告げた。

 繰り返すがこの話は、イスラム国の悪行を伝える膨大な話の中から、彼らの寛容性や人間味を示しているかもしれない部分を、私が無理やりに抜き出し、または引用したものだ。

 私もイスラム国が邪悪な組織であると思っている。ただ同時に彼らがどの程度邪悪であったのかを知りたかった。そのために、どこまでのことをやって、どこまではやらなかったということを知りたかったのである。

 それは伝承に登場する暴君ダッハークのような存在としてではなく、現実的な存在としてイスラム国の感触を掴みたかったためだ。

 ちなみに暴君ダッハークについてすら、彼は自らの正義を実現にするために父王を殺害して王座に就いた、または、毎日2人の子供が犠牲に捧げられたのも、彼の両肩に生えた2匹の蛇に常に彼自身の命を脅かされており、それを避けるために子供を餌にさせたとためだったいう異説も存在する。

 邪悪な者や忌み嫌う者の中に、それとは反対の性質を見出すことはとても難しい。

 ただ、イスラム国を駆逐した後のイラクで皆が望むような新しい日々がどれだけ長く続くか、ということと、こうした話を可能な限り回収することの間には少なからず相関関係が存在すると個人的には思っている。

筆者:加藤 丈典