プロ入り3年目で才能が開花。左足の正確なキックを武器に左SBに定着すると、翌年には清水へ移籍した。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)

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 左SBとして生きていく決意は、プロに入ってすぐに固めた。
 
 高校時代にプレーした左サイドハーフへの未練も、練習を重ねるうちに断ち切った。プロとして攻撃的なポジションでプレーするには、ドリブルやフェイントといった備え持つべき武器が、あまりに心許なかったからだ。
 
 しかし、左SBとしてプレーする機会はなかなか巡って来なかった。公式戦はもちろん、練習試合でさえ――。
 
「1年目は試合に出場できなかったし、練習試合でも人が足りないポジションで起用されることが多くて、左SBをやったり、ボランチをやったり。2年目は試合に出場できるようになったんですけど、CBだったので、今後の自分がどうなっていくのか正直分からなかった」
 
 のちに日本代表となり、ヨーロッパへ渡ることにもなる若者は二十歳の頃、先が見えずにもがいていた。
  
 横浜FCでプロ選手となった2006年シーズン、太田宏介は公式戦のピッチに2回しか立っていない。メンバーを入れ替えて臨んだ天皇杯2回戦ではCBとして先発したが、リーグ戦では89分から右SBとして途中出場しただけだった。
 
 念願のJ1昇格を成し遂げるこの年、横浜FCには三浦知良をはじめ、ベテラン選手が多かったため、練習試合が組まれることが少なかった。
 
 その限られた機会で太田がたまたま左SBとして出場した浦和レッズとの練習試合を、偶然にもU-19日本代表監督の吉田靖が視察した。
 
 SBを探していた指揮官の目に留まった太田は10月、初めて年代別代表に選出されたが、1年目を終える頃、横浜FCでの立ち位置は危ういままだった。
 
 太田が自身の置かれた状況をはっきりと自覚したのは翌2007年1月、クラブから命じられてブラジルのクラブに留学した時である。
 
 週に2度の試合が組まれていたが、期限付き移籍ではなく留学だったため、試合には出られない。試合間隔が短く、トレーニングは調整メニューばかりで身になる練習はまるでなかった。
 
 ある日、太田が横浜FCのホームページを覗くと、J1での戦いに備えて合宿を張るチームの写真が掲載されていた。
 
 その時、初めて気付くのだ。自分は戦力と見なされていないのではないか、と。
 
「同期の選手たちも期限付き移籍で外に出されて、事実上アウトでした。自分もチームに本当に必要な選手ならキャンプに連れていくはずだから、今年ダメだったら終わりだろうなって」
 悲壮感をもって帰国した太田に、運が味方する。DFに負傷者が続出し、出場機会が突然巡ってきたのだ。
 
 開幕4試合のうち2節を除いてベンチにすら入れなかった太田が、5節のジェフ千葉戦でCBとして先発し、念願のJ1デビューを飾った。
 
 もっとも、J1のハードルは高く、チームは失点を重ねて黒星の山を築く。太田も不慣れなポジションで奮闘したが、横浜F・マリノスに1-8で敗れるなど、打ちのめされてばかりだった。
 
「心にゆとりがなくて、来たボールは全部大きく蹴り返すだけ。ただプレーしている、という感じでした。プロとして勝負するならSBしかないという想いを抱きながら、もがいてましたね」
 
 高卒2年目の選手というのは、簡単に出場機会を得られるものではない。太田にとっては「ただプレーしている」だけだったかもしれないが、大きな意味があった。J1での試合経験を買われ、その年の夏にカナダで開催されるU-20ワールドカップのメンバーに選ばれたのだ。
 
 チームメイトは、柏木陽介、安田理大、槙野智章、内田篤人といった同級生の有名選手ばかりだった。
 
「みんな雲の上の存在だったし、自分が技術で劣っているのも分かっていた。途中から代表に呼ばれるようになって誰も僕のことを知らなかったし、当時は人見知りだったから全然しゃべったりできなくて、ちょっと苦痛でしたね」