新しい年度を迎え、大学のキャンパスにはフレッシュマンたちがあふれ、新たに社会に出る人々も期待(ならびに一抹の不安もあるでしょう)に胸を膨らませていると思います。

 毎年私が教室で大学1年生たちに言うのは、特に現役で合格した諸君には、おめでとう、と同時に、人生の中で貴重な「修復可能な失敗」の1つ、浪人という経験をしなかったのはちょっと残念かもしれない、というポイントです。

 よろず学校は「失敗」を覚えた方がいいところだ、という話もします。東京大学の場合、科類によっては、1年生から優を並べないと進学できない学科があり、実際私自身も教養学部在学中はそうした点取り虫の優等生を演じました。

 しかし、はたしてそれが良かったどうか、疑問も少なくない、といったことを正直に話します。

 学生諸君は「失敗は良くないこと、成功が良いこと」と思い込んでいますが、学生時代の失敗はよほどのことがない限り、その後の人生キャリアに特段の影響を及ぼしません。

 翻って入社後の失敗は、仮に決意を持って行ったものでも、後々に尾を引きます。

 例えば私は34歳で東大に呼ばれた当初、それなりに鳴り物もありホープ扱いでしたが、上にいた人物に「立派な組織人にしてあげましょう」と言われ「結構です。生涯一音楽人ですので」と袖にしたところ、18年経って50歳を過ぎても助教授のままに据え置かれ、完全に「出世コース」からは外れました(苦笑)。

 まあその代わり、雑務はミニマムに抑えられ、欧州や米国でのライフワークなど、30〜40代のすべてをもっぱら私自身にとって大切な仕事に集中できたので、別段後悔はしていません。

 このあたりは反骨の先輩である金子兜太さんと呵呵大笑で歓談するところですが、とかく仕事に入ってからの「失敗」は、下手すると組織に属している間中、尾を引きます。

 金子さんは戦前に日銀入行、出征して南方戦線ミクロネシア最前線で凄まじい戦闘と飢餓を生き抜き、帰国後は日銀での出世などに一切興味を持たず、俳人としての航路を一途に進まれました。

 これは決意あってのことですが、いま新入生、あるいは社会に出たばかりの若い皆さんには、存外のことで足元を救われて、思わぬことにならぬとも限らないという警句も、お祝いのエールとともにお話する方が実があると思います。

 失敗するのであれば、学校で、学籍のあるうちに、思い切り試行錯誤して失敗し、それに懲りて一段賢く、またひとつ優しい大人になってほしい。逆に修羅場を潜り抜けないまま年齢だけ重ねてしまうと、失敗を恐れるあまり、ヒステリックで困った上司になりかねません。

 一般論はありませんが、様々なケースがあり得る。どうかご自身の思うように、人生航路を進まれますように、というエールとともに、「明治の失敗例」のご紹介として「ハワイ王国の滅亡」を現地の日本人がどう見たか、考えてみたいと思います。

 このとき現地にいた日本人の1人は私の曽祖父でした。家の中で聞いてきた話を含め、あまり世の中に出ていないポイントもご紹介できると思います。

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「失敗領事」たちが見た「銃剣憲法」

 以下、タイムマシンの針を明治14年に合わせましょう。大隈重信が失脚する政変があった1881年、ハワイ王国のカラカウア国王が外国の元首として初めて来日、日本としては初めて「不平等条約解消」の約束が交わされ、官製移民団による組織だった入植が計画され、4年の準備を経て実行に移されました。

 1885年、第1回移民団がハワイに向かいます。このとき開設された駐ハワイ王国大日本帝国領事館に、カミソリ級に切れる外交官が送り込まれました。

 安藤太郎、1846年鳥羽藩藩医の家に生まれ、江戸に出て安井息軒に師事、大村益次郎こと村田蔵六の薫陶を受け、勝海舟の海軍修練所で西欧兵学を学びます。

 若干21歳で迎えた戊辰戦争ではオランダ留学から帰ってきたばかりの榎本武揚や、大鳥圭介らと共に幕府軍側で参戦、品川沖で薩摩の軍艦を討つなど戦功を上げますが敗退します。

 石高800万石と言われた徳川将軍家は大政奉還で駿府60万石に減封、これでは旧幕臣は食べていけません。例えて言うなら年商8億円の企業がいきなり6000万円の商いしかできなくなれば、大半の社員は生活に行き詰まってしまいます。

 榎本や大鳥たち30歳そこそこの幕臣たちは、自由の新天地を思い描いて蝦夷地、箱館を目指します。が、これを官軍への叛乱と見なされ、新政府軍と交戦状態に陥ります。いわゆる「箱館戦争」で、この中でも22歳の安藤太郎は善戦します。

 箱館戦争は討伐軍の黒田清隆らが奇襲で乗り込み、必死の説得で平和裏に武装解除、榎本、大鳥らとともに安藤も捕らえられ、獄に繋がれてしまいます。

 このとき殺されても仕方がなかった。実際、西郷隆盛などは榎本以下の「叛乱軍」の皆殺しを強行に主張し、みな覚悟はしたはずですが、胆力の大きな榎本は状況を平然と笑い飛ばし、下僚を鼓舞し続けた様子です。

 武装解除した黒田清隆は榎本以下の助命に、頭を丸めて坊主にしたうえ文字通り奔走し、2年半の時間を要しましたがこれを実現させました。

 下っ端だった安藤は早くに許され、黒田の下で北海道開拓使に出仕、まずは人材育成からと、「開拓使学校」を作ります。のちの札幌農学校で、ここから内村鑑三、新渡戸稲造などの人材が育ちます。安藤太郎なくして、内村も新渡戸もあり得ません。

 開拓使での安藤の働きは目覚しく、特にその語学力とこれを駆使しての問題解決能力は音に聞こえ、中央に呼び戻されて「岩倉遣外使節団」の通訳として大久保利通、木戸孝允などかつて戊辰戦争で刃を合わせた薩長官軍リーダーのもと、恩讐のかなたに力を携え、新しい国の未来のために通訳として全力を尽くします。

 このときやはり通訳として活躍した中に、東京工業大学の生みの親、手島精一氏があったことには前回触れました。

 この後、安藤氏は外交官として手腕を発揮、香港領事を皮切りにキャリアを重ね、西欧列強の前に植民地化の危機に瀕していた清朝末期は上海領事を務め、そこからハワイ王国総領事に転出することになります。

 もともとが、官軍に完全に負けた経験のある武士、江戸の幕臣ですから、人生を失敗した経験がある。切腹も覚悟しただろう、いわば「失敗領事」たちが、失敗国家になりかかっていたハワイが本当に失敗するプロセスをまざまざと見るわけです。

 ちなみに数回後に記しますが、当時の駐清公使は榎本武揚、天津条約締結に際して清の皇帝に謁見した黒田清隆が榎本とつるんで北京で乱痴気騒ぎ、上海では中国人給仕のボーイをホモ・セクシュアルだった黒田が強姦、そのもみ消しといった裏話から意外な展開に繋がったりもしますが、これは後にとっておきましょう。

 1885年、ハワイに着任した安藤は米国による時々刻々のハワイ侵略を目の当たりにします。何しろ戊辰戦争を戦い、箱館では斬死を覚悟したほんまもんのお侍、武士ですから、こういう情報収集は徹底していました。

 1887年、前回も記した「砂糖貴族」らによるクーデターにより、ハワイ王国は「銃剣憲法」を押しつけられてしまいます。

 王権は著しく制限、日系などアジア系の移民は一切選挙権がなく、元来のハワイ島住民も選挙権・被選挙権に資産その他に厳しい制限が設けられ、富裕な欧米系移民だけが権利を伸長させるように線路が敷かれてしまった。

 こうなると、一国としては死刑宣告を受けたのと同じで、つるべ落としのように一国が滅びて行く、そのライブ中継を在ホノルルの日本領事館は東京に報告し続けました。この時期に一言一句がまとめられていた大日本帝国憲法に、「銃剣憲法」の失敗が薬にならなかったわけがありません。

アロハ・オエとハワイ王国の滅亡

 ハワイ王国は1891年、在外のカラカウア国王がサンフランシスコで客死すると、その妹で摂政に任じられていたリリウオカラニが女王に即位、1893年1月、元来のハワイ島人の権利を回復する復権憲法草案を国会に提出しますが、ときすでに遅し。

 欧米系移民が多数を占めていた国会で、簡単に否決され、直後に「共和派」軍勢が王宮を取り囲み、王政の廃止と共和国の樹立が宣言されます。「米国の属国ハワイ共和国」の始まりでした。

 日本は王制を支持して軍艦を送るなどしますがすでに焼石に水。そしてこの翌年、今度は日本が、朝鮮半島で起きた動乱(甲午農民戦争)をきっかけに、

 「清朝の属国として朝鮮半島民が苦しんでいる。この国際的独立を果たさねばならない」

 という正義の御旗を押し立てて、朝鮮半島に軍を送ります。「日清戦争」にほかなりません。

 ハワイの方は約2年の混乱の末、1895年に最終的にリリウオカラニが女王退位の文書に署名させられて、ハワイ王国は滅亡、たった3年後に米国に併合されて「準州」とされ、真珠湾の米海軍基地など、米国による太平洋支配の拠点が着々と建設されていきました。

 1941年12月8日、日本がこの真珠湾を叩いて太平洋戦争を開始したのは、「米国はカリフォルニアに引っ込んでいろ、間違ってもハワイだフィリピンだといったアジアに侵略の手を伸ばすな!」という大東亜共栄圏自立の考え方が背景にありました。

 元をただせば米国に併合される以前、カラカウア国王が思い描いたポリネシア帝国構想とも通じるものであったと言えるかもしれません。

 悲劇の君主、リリウオカラニ廃女王はまた、「アロハ・オエ」の作者として知られています。

 1895年、まさにハワイが滅亡した瞬間に楽譜が発売され、またたく間に世界的な大ヒットとなった「アロハ・オエ」ですが、元来は観光地に流れるのどかなリゾート気分の恋の歌では本来あり得なかった。

 恋を隠れ蓑に、滅亡した故国への限りない愛惜を、あの旋律に乗せて歌っているのにほかなりません。

 あなたにこんにちわ

 あなたにさようなら

 木陰に佇む優しい人

 別れの前に抱擁を

 また会えるその日まで

 この「アロハ・オエ」が世界に広まった1895年、ハワイの「失敗」を横目に日清戦争に勝った日本は、下関条約で「独立国」となった李氏朝鮮に駐箚全権公使として着任した元長州藩士で陸軍中将・前学習院長の三浦梧楼が作戦を指揮して、親露政策を取り始めた王妃「閔妃」を惨殺するといった事態に直結していきます。

 幕臣から「失敗外交官」となった榎本や安藤は、こうした隣国の力づくの併合に極めて批判的で、北海道開拓の延長にハワイ、メキシコ、さらにブラジルへの移民政策を位置づけ、最終的にはブラジル移民を成功させます。

 実はこのハワイ→メキシコ→ブラジルという移民政策を一貫して現地に出向いて担当したのが、生涯にわたって安藤氏と思想的に同じ理想を共有していた、前回も触れた藤田敏郎でありました。私の曽祖父です。

 後に曽祖父は公務でシベリア出兵の後始末などもさせられますが「負け組」経験者、「失敗外交官」として武力による他国侵出に徹底的に懐疑的でした。

 8人いる子供に軍人は1人もありません。例えば長男は米国で学び米自動車産業で第1世代のエンジニアになっています。

 安藤さんも曽祖父も、あるいは曽祖父の指導教官・矢野二郎氏も手島精一氏も、武力暴力ではなく平和裏の公益で、また実のあるファクトを作り出せる本当の創造性という強さを持って、人を征するのではなく世界と自然の未踏に打って出るのを天道としました。

 また安藤さんや曽祖父のこうした精神を支えたのが「クリスチャン」と「禁酒」の両輪でした。これをもって特に、にわかに捏造された可笑しげな国粋主義の不合理な崇拝を徹底して冷淡に観察することになるのですが、そうした展開は別稿としましょう。

 フレッシュマンの皆さんにも、同じことをお勧めして本稿を閉じたいと思います。

 無理やりな力をもって、人を征したり、人の邪魔をしたりするケースを、これから皆さんは目にするかもしれない。一時はそういうものが覇を競って見えることもあり得ます。

 しかし、そんなものは結局何1つ確かなものを残しません。

 平和裏に、基礎からきちんと積み上げて、実のあるファクトを作り出せる、本当の創造性という強さをもって、勉学にあるいはビジネスにR&Dに、充実の新生活を送られますよう、エールを送ります。

筆者:伊東 乾