圧力を変革につなげられなかった ZUMA Press/AFLO

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 日本経済の飛躍と崩壊の過程からは数多くの教訓が得られる。日経新聞元編集委員・永野健二氏が著した『バブル』が大反響を呼んでいる。永野氏は、現在の日米関係に既視感を覚えるという。

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 1980年代の日本のバブルを振り返って見るとき、あの時にあれが実現していたら、歴史は異なる展開をしたのではないか、と思うことがある。1985年のプラザ合意によるアメリカのドル高政策からの転換と、裏返しとしての日本の国をあげた円高危機論、そして1987年のブラックマンデーの世界同時株安。それは米国と日本と西独、株式・為替・金利の三元三次方程式でつながる、世界の金融市場が、初めて迎える危機だった。

 グローバリゼーションの中で、2月の安倍晋三─トランプ会談でもみられた、米国に対する日本政府の過剰ともいえる配慮が、日本のバブルの最終局面の土地高と株高を加速して、1990年以降のバブル崩壊の傷跡を大きくした。

 1988年〜89年の最終局面のバブルの増幅は、国際協調という名のもとに、日本銀行がみずからの役割を放棄して、金融引き締めを逡巡したこと、大蔵省がまるで、右肩上がりの株高を保証するかのような、財テク推奨の旗を自らふったことにある。

◆幻の革新的チャレンジ

 しかし、1980年代の前半に、日本的な金融システムを変えようとするうねりもあった。1981年に誕生した米国のレーガン政権のもとで、、日本への金融の自由化と開放圧力の強まりは、日米の金融・貿易摩擦の起点となるうねりだった。

 改革とは、外圧を内部の力と結びつけて変革につなげるリーダーシップのことである。1980年代の前半、まだバブルが顕著な形をとるまえに、二つの革新的な試みがチャレンジされ、水面下でつぶされた。

 一つは、1983年7月に日本経済新聞がスクープする「野村証券とモルガン・ギャランティ・トラストが共同で信託会社を設立する」というニュースだった。いま一つは、1983年6月に大蔵省証券局長に就任し、1985年1月、プラザ合意の半年前に憤死する佐藤徹が水面下で画策した、日本興業銀行を、米国流の投資銀行に転換する構想である。

 片や、世界最強の信託業務の実績を持つ外国銀行と、日本の新興勢力野村証券が、将来の成長分野である信託業務に参入するという、日本金融制度をゆさぶる大ニュースだった。 片や、1970年代以降、役割が終わったにもかかわらず、日本の金融界に君臨し続けていた興銀を、米国流の投資銀行に変えさせようという大胆な大蔵官僚が、レーガンの激しい圧力の中に、日本にもいたという事実である。

 しかし、大蔵省を中心としたエスタブリッシュは、あろうことか、円ドル委員会の最中、「野村・モルガンの信託会社構想」を葬るために、アメリカ政府と水面下の取引をする。外銀信託を全面的に解禁することと引き換えに、この個別案件を葬り去るのである。世界一の運用会社モルガン・ギャランティに学ぶという千載一遇のチャンスを、日本の金融界は放棄したのである。

 また、日本興業銀行が、佐藤徹の投資銀行構想に乗れなかったポイントは「銀行」という名前にこだわったからだと言われている。その15年後、「銀行」どころか、「日本興業銀行」という100年の歴史を誇る行名自体をなくすことになる。

 もし、「野村・モルガン」構想が実現していたなら、信託銀行は、バブルの時代にファンドトラストを使った傍若無人の振る舞いをしただろうか。野村証券は営業特金や新設したノンバンクで株式、不動産融資にあそこまで深入りしただろうか?

 また、日本興業銀行がもしも佐藤徹のアドバイスに乗り、新しい金融機関への転換を図っていたなら、大阪の料亭経営者・尾上縫(*注)に2500億円という尋常でない割引金融債を売り込むという、異常な事件は起こっていただろうか?

【*注:1980年代、大阪の一料亭経営者ながら、数千億円を投機的に運用し、「天才相場師」と呼ばれる。バブル崩壊に前後して、巨額詐欺事件にかかわり、1991年に逮捕された】

 バブルを1980年代の後半にかけての異常な数年間の物語として総括する人は多い。しかし、彼らはバブルを生み出した人間の物語と金融制度の問題にあまりにも無頓着である。制度の軋みを巧みに利用したバブルは、どのような経過をたどっても、最後にはユーフォリアをもって崩壊にいたる。

 米国のトランプ政権の誕生は、民主主義にとっても、資本主義にとっても、国民国家にとっても、「画期」であることは間違いない。そして、トランプにいち早く入りこんだ、安倍晋三の才覚も現時点で否定するわけにはいかない。しかし、トランプと安倍晋三が「Win-Win」のゲームを公言する時、その答えが「バブル」以外にあり得ないこともまた真実である。

【PROFILE】1949年生まれ。京都大学経済学部卒業後、日本経済新聞社入社。証券部記者、編集委員として、バブル期の様々な経済事件を取材。その後、日経ビジネス、日経MJの各誌編集長、大阪本社代表、BSジャパン社長などを歴任。

※SAPIO2017年4月号