2016年11月12日(土)

女社長、暇を持て余す

入院5日目ともなると検査もなく暇である。

傷口は未だ痛いし右肩もさっぱり上がらないのであるが、先生から動いてよいと言われているので私は病院中を痴呆症レベルに徘徊している。とはいえ、体と廃液パットがチューブでつながれているので、パジャマ姿で、点滴ラックと一緒にカラカラと動き回るしかない。最初の頃は歩くのと点滴ラックを押すタイミングが悪くてつまずきそうになったりしたものだが、今では息もぴったり合ってラックとタンゴすら踊れそうである。慣れってすごい。

慣れと言えば、私の右おっぱい(ギザパイ)は今、エキスパンダーという水風船みたいなものが右大胸筋の下に入っている状態だ。そこに生理食塩水を定期的に注入して皮膚を伸ばしていくらしいのだが、このパンパンに詰まったギザパイの様子がすごい。10代か!と言う程の張りと、岩か!と言う程の硬さを誇りお椀型に上を向いているので、授乳経験のある「44年物の左おっぱい」との差が激しく違和感満載である。正式なシリコンを入れるまで半年ぐらいと聞いているが、これにも次第に慣れてゆくのであろうか?

徘徊中の一休み。白いバンドはエキスパンダーが上に上がりすぎないように押さえる役目。

さっきは形成の先生が私の両おっぱいの写真を撮りにきたが、
「サイズの問題もあり、胸を張らせるのは簡単なんですけど、垂れさせるって難しいんです……」
と、深刻な顔で不吉なことをつぶやいて出ていった。なんか、私の左おっぱいがさりげなくディスられてる? とも思ったが、先生はいかに左おっぱいに似せるかを思案しているようだったのでこれも有難きことと思い、その哀愁漂う背中に「がんばって!」と無言のエールを送っておいた。ほんとに先生頼みますよ!

11月13日(火)

女社長に“最強助っ人“現る

入院前に夫とばーばと話しあったところ、私の入院中家のことは何とか回るものの、子供を度々面会に連れて行くのは手が足りないということに気づく。長女は来たいときに一人でも来ることができるが、問題は次女(4歳)の方。保育園の先生曰く、最近表情が暗く「こんど、ママがにゅういんしちゃうの」と、時々泣き出したりするというからケアが必要だった。

そこに、
「貴子さん!私に任せて!」
と、最強助っ人の義母様が降臨。

医療系大学で教鞭を取る義母が仕事を調整してくれて、次女を面会時間内に運んでくれることになった。乳がんになったと知らせた時も、

「貴子さん、生存率を見ても乳がんでよかったわ! 私もいろいろ調べるから頑張りましょうね!」

と、明るく前向きに受け止めてくれた義母。いつだって起きてしまったことをとやかく言わず「じゃあ、何をするべきか?」と、考えて行動を起こす義母が私は大好きだ。

夫と結婚したことで、この義母と果てしなく優しい義父と家族になれたことは私にとって、そして長女にとっても最大の幸運だった。いつか義母が働けなくなった時、今度は私がちゃんとフォローできるように、私はますます長患い&死んでる場合ではない。完治へ向けての乳がんプロジェクト遂行に再びメラメラと闘志を燃やしたのだった。

女社長、次女と「ぎゅー」をする

そして本日、早速義母が次女を連れてきてくれた。

私が入院している病棟はお年寄り率&重病率が高いせいか、「ママー!」と言いながら、転がるように部屋に入ってきた次女の生命力がひと際眩しい。4日ぶりに会った次女を強く抱きしめると春の日向のような匂いがして、それはいつまでもいつまでも嗅いでいたい匂いで、私がこの子の母親であるという幸せをくっきりと自覚させてくれるのだった。

前に病院に入院したのはこの子を産んだ時で、その時の次女は生きてるのが不思議な程小さく、心もとない存在だったことを思い出す。その子が今やこんなに大きくなって、今日の保育園の話をしてくれたり、お姉ちゃんがばーばに怒られたことを「ないしょだけど〜」と言いながら告げ口したり、終始お道化たりしている。

病院の食堂にて。「わるいひとがおかねをかぞえているところ」という芸を披露してくれた。

帰り際、「まま、ぎゅーして。」と、何度もせがまれ何度もぎゅうをした。右手でタッチして、左手でタッチしても帰らないので、右足同士や左足同士もタッチして、それでも儀式は終わらず次女は帰ろうとしないのだった。「明後日も来れるからね」と義母に促され、いよいよ帰らなければならなくなって最後にぎゅーをした時私の耳元で、

「まま、だいすき。はやくかえってきてね」

と、次女は小さな小さな声で言った。そして、

「それがいちばんいいたかったことなの」

と、まっすぐに私を見ながら涙ぐんでそう言うのだった。

私は子供のころから個人主義的で、付き合いが悪く、べたべたしたり、協力し合ったりというのが大そう苦手なタイプだった。そして、結婚しようと子供を持とうと、うっすらそれを携えて生きてきてしまった感がある。長女は0歳児1か月でベビーシッターに預け、次女も一か月授乳後夫に育児を任せて仕事に復帰したし、二人の娘には私が生きる背中を見せればよいとどこかで強引に割り切ってそれを当たり前にしていた。よって、失敗を数々やらかしても「私の自業自得」であり、家族に対しても私が責任をもってリカバリーすればよいと思ってその都度「あたりまえに」立ち上がってきた。

しかし、がんだけは違った。

自分が死ぬかもしれないと人生で初めて思って、これだけはリカバリー不可能だと、子供たちの泣き顔や夫の憔悴する姿を想像し、それこそ人生で初めて肝を冷やした。同時に当たり前の日常が、死ぬことなんて思いもしない毎日がどれだけ貴重で、どれだけ素晴らしい日々だったかを思い知るのだった。

女社長に与えられた「ギフト」

名残惜しそうに何度も手を振り、出口へ向かう次女を見ながら、神も仏も信じてこなかった私は、この際神でも仏でもよい、誰かに、何かに、感謝をしたくてたまらなくなった。そして、これが「ギフト」(*がんになったから得られたもの)なのかもしれないと思う。

本物の右おっぱいはなくなったけれど、今生きていることに比べたらそれはなんて些細なことであろうか。生きていれば「取り返しのつかないこと」なんてないのだ。おっぱいだって作れるし、何より家族への接し方や、働き方、人の愛し方すらも、この有限な人生期間において今からいくらでも進化できるはずだと思う。

私ががん告知を受けた時の「絶望」が、術後の今は「希望」に変わっているし、赤ちゃんだった次女は言葉で愛を伝えられるほど劇的に進化した。人間は思うよりずっとたくましいということをがんはまざまざと私に、かなりの荒療治で教えてくれたことになる。

ドアが閉まる最後まで、次女は手を振っていた。

ひらひらと出口に消えゆく次女の小さな手は、私の「生きる希望」そのものだった。