自分の得意分野でニュースがあるとテレビや新聞雑誌の取材を受けたり、情報番組に呼ばれたり、月に2度ほど朝の番組でコメンテーターをやったりする私ですが、一番困るのは「得意でない話を振られたとき、自分でもクソみたいなコメントを言わざるを得なくなる現象」というものがあります。とりわけ、どこかに台風が来た、地震が起きた、殺人事件があった、大変な交通事故だ、いろんな問題が起きたとき、MCの大御所から「どう思いますか」とか振られるわけですよ。もうね、ただただ「お大事に」としか言えなくなるわけです。面白いことを言おうとすれば不謹慎だし、何も語れなければ置物扱いされてしまいます。洪水が起きて家の前の道が濁流になっている映像を必死になって伝えているレポーターを見て「うわ、住人も仕事で現地行くディレクターさんもレポーターも大変だな」と思うけど、意見を求められる私に洪水の知識などあるはずもない。でも、メディアというのはそういう仕事がそれなりの割合を占めているのです。


©iStock.com

全方位の専門性なんて存在しない

 んで、雑誌であれテレビであれ、どのようなトピックスやニュースでも“伝える側の意向”として「読み手(視聴者)に寄り添ってください」とか「感じたことを独自の目線で」などとお願いされるわけですよ。例えば天災や事件があって、そのよろしくない状況について読み手(視聴者)に寄り添うとなると、一緒になって怖がったり同情したり怒ったりするしかない。全方位の専門性なんて存在しないんだから仕方がないだろ。逆ギレして割り切るしかないんですよ。目の前で起きている殺人事件の事情を詳細に解説をできるのは殺した奴だけだ。本当に知るにはそいつ呼んで来るしかねえじゃんか。そう思うわけであります。

 この手の「世の中にはすごいことが起きていても、それを伝えるメディアの側が必ずしも正しい知識に基づいた相応しい内容を常に伝えることができるわけではない」という現象は、メディアもビジネスであるという不文律によって成立しています。テレビ番組だって報道だって文春砲だって、毎回毎週読者が腰を抜かして椅子から落ちるような破壊力のある事件ばかりがあるとは限らないし、凄いネタがあっても正しく伝えられるとは限らない。ただそこにあるのは締め切りやオンエア直前まで頑張る編集者やライターやディレクターが睡眠不足で充血したうつろな目で最新情報はないか探し回る姿なのです。大きいネタのない週はお通夜のように、大炎上ネタがあるときはお祭りのように祀るのがメディアです。

『ネイチャー』の「日本イケてねーなバーカ」という記事

 先日、イギリスの権威ある科学雑誌『ネイチャー』で、我が国日本から出される重要な科学論文が大きく減少していると指摘する記事が出ていました。「世界のハイレベルな68の科学雑誌に掲載された日本の論文の数」が過去5年で8%減少し、英ネイチャー誌は「日本の科学研究がこの10年で失速しており、世界の科学界のエリート(を輩出する日本)の地位が脅かされている」とかいう内容です。まあ、簡単に言えば日本イケてねーなバーカという。少しでも大学に関わり合いのある人ならば「うるせえな、分かっとるわ」で終わる内容です。でも、世間さまはそういう話でもおおいに動揺する。科学者は何をしているのか。日本はもう駄目なんじゃないか。科学立国なんてもう無理じゃないかと言い始めるのです。何が悲しくてイギリスごときにDISられているのか分かりませんが、まあ事実ですから受け止めざるを得ないでしょう。お前らだって良く分からないうちにEU離脱になったくせに。ちくしょう。


「日本の科学エリートとしての地位が脅かされている」という記事が載った『ネイチャー』の別冊。メディアアーティストの落合陽一が表紙を飾る。nature.comより

 その一方で、日本の科学者たちを代表する組織である日本学術会議は、防衛省の研究助成制度に関して、政府による介入が著しく問題が多いとする新たな声明を発表して物議を醸していました。もちろん、日本学術会議は太平洋戦争参戦への反省もあり「軍事目的のための科学研究を行わない」という大きな方針を掲げているだけに、昨今の防衛省の学術研究予算が増えたことで大学の研究に影響力を与え始めたことに警鐘を鳴らさざるを得ない部分はあるのでしょう。まあ、気持ちは分かる。でも軍事研究だから一律NGとするならば、そもそも軍事研究の賜物であったインターネットも使えませんし、逆に数十cmの雲の密度を測定できるワイドバンドの気象衛星の技術を軍事転用するなんて簡単なことです。軍事だから、民用だから、という切り分けはそもそもむつかしいことぐらいは、みんな分かっていると思うんですよね。分かっていても言わなければならないことがある、ということなのかもしれませんが。そりゃ戦争は良くないことだけど、軍事に転用できる技術や、軍事用で必要に迫られて予算が付いた研究を一律に除外するとかいう話は、学術研究に携わる人の手足を縛る以外の何物でもないじゃないかと思います。


日本学術会議の安全保障と学術に関する検討委員会の杉田敦委員長 ©共同通信社

「安全だが安心ではない」という感情論に流れる仕組み

 ここに大きく横たわるのは、先端的な学術研究と、一般的な人々の知識や興味、関心の落差をメディアが埋め切れてないんじゃないの、という懸念です。一般誌や全国紙、テレビ番組で、日本の科学技術がどうあるべきかを論じるような記事や番組はデスクやプロデューサーの英断で掲載できたり放送できるとしても、それが多大な関心をもって受け手に届くかというとまずあり得ないわけです。仕事や学校に行く亭主や子供を送り出してホッとしてテレビをつけた主婦が観たいのは芸能人の不倫であり殺人事件であり隣の韓国朴槿恵大統領の罷免であり森友学園理事長の証人喚問です。間違っても、有為な人材が予算不足や制度の硬直化によって無駄な雑務に追われて研究できる時間もカネもなくて論文が書けないので、日本の大学や研究機関の世界的な地位が低下しているよ、というネタではないのです。そればかりか、世の中の複雑な社会現象は往々にして表層的な事件で一面的に斬られることになります。雑誌だとワイド特集、テレビ番組だと雛壇芸人や情報バラエティがいろんな議論を呼び起こすのも、分かっている人からすれば浅すぎる情報しか流さないし、深い情報を流そうとすると読み手や視聴者がついてこないという現状があるからです。


百条委員会で「科学が風評に負けるのは恥」と語った石原慎太郎元都知事 ©共同通信社

 その結果、それこそ小池百合子都知事が自前のプロジェクトチームですでに豊洲新市場の建物も土地も安全であると宣言しているにも関わらず、謎の「安全だが安心ではない」という感情論をブチ挙げる現象に至ります。科学とかどこいったんだよ。しかも、それを都民が「小池さん、よくやった」と支持率8割近くとか凄いことになっているのも、恐らくは科学的に安全だから操業しても問題ないというマジモンの事実はどうでも良いからでしょう。もちろん小池女史なりに必死に風を読んで判断しているのでしょう。ただ、自民党都連や東京都庁組織との対決姿勢を取り、左は共産党まで幅広く支持を集められる状況ならば、確かに小池女史は来たる都議会選挙で圧勝することもできましょう。百条委員会で呼び出された石原慎太郎さんがいみじくも叫んだ「科学が風評に負けるのは恥」は、そのまま英ネイチャー誌に指摘された日本の科学の停滞と被ります。お年寄りに正論言われて辛い。そりゃ真面目に科学を突き詰めても、いくら正しいことを語ろうとも、100%正しいのはこれだと裏付けることができたとしても、世の中は声のでかい、見栄えの良い、耳障りの軽やかな、甘い言葉の並んだスローガンが勝つのです。

世の中は、細かい分野ごとの専門家の組み合わせでできている

 それは、福島の原発事故の影響はほとんどなくなったとしても、いまだに福島産というだけで忌避する国民は多く、また福島から来た児童を「放射能がうつる」といじめる現状に通じるようにも思います。何してんだよお前ら。人は存外「何が正しいのか」には無頓着で、実際には「何を信じたいのか」を中心に生きていることの証左なのかもしれません。日本の科学がなぜ停滞するかの要因のひとつは、科学者や研究者ではない日本人が、これらの専門家を信用し信頼して、自分の分からないことを任せる、科学者や研究者がその請託に応えて効果的で正しく適切に学術成果を世に出すことに精励するという相互作用が摩耗してしまったことにあるのではないか、と思うわけであります。


©iStock.com

 私たちが知るべきなのは、専門家というのはすべての分野に詳しいわけじゃないんだよ、ということです。私だって投資や社会保障には詳しいけど、台風が来たときの被害について語れと言われても無理なのと同様、各分野にはその分野に熟達した専門家というのがいます。医師だって、総合医や救急の人たちは幅広い処置はできるけど本当に治療するとなれば専門医の出番になるのと同様です。また、すべての分野に知識を持つ人などいません。ある分野では超人のような泉のごとき知識量を湛えた人でも、ほかの分野ではからっきしの凡人で馬鹿っぽいことを放言するなんてよくあるわけですよ。

 世の中は、そういう細かい分野ごとの専門家の組み合わせでできている、と認識しながら、問題をうまく処理したり、将来を正しく見定められる社会にしていかないといけません。メディアも目線を下げて読み手や視聴者に迎合するだけでは駄目であるし、何かボタンの掛け違いを正さない限り、なかなか日本の科学技術をどうにかしようにも物事が改善しないのではないか、と危惧する毎日です。

(山本 一郎)