森友疑獄の国会証人喚問は与党の丸腰ぶりと戦略の拙劣さをただただ見せつけるだけに終わったように見えます。今後どのように事態が推移するか、見守るしかありませんが、こういう能無しぶりと「教育勅語」は浅からぬ関係にあります。

 今回は少し脱線して、健全な対抗勢力、批判的知性がいかに大切か、というお話をいたしましょう。

 米国における二大政党制が端的と思います、カウンターカルチャー同士が互いに妍(けん)を競って、より優れた行政であれ司法であれ、立法であれ文化であれ、育てていくのが本来の形と思います。

 で、現下の日本の情けないモノポリぶりはどうでしょう?

 メディアを統制して一元化するといった拙劣は、悪事の隠蔽などには適していますが、真の意味での強さを生み出すのとは正反対、あまやかされ、スポイルされて、本当の実力は身につけ損なった2世3世が考えるインチキの典型と言わざるを得ません。

 そんなお飾りばかり、ひな壇に並べて、軽い神輿は担ぎやすい、というのも情けない話であって、結局そういう組織の内在論理、端的に言って腐敗と空洞化、どこかの市場の地下空間みたいな国にしてしまったから、こんなお粗末な体たらくになっている。

 「肝の据わった反骨はないものか?」という現実を、近代日本に求めるとき「親藩・幕臣」あるいは「土佐・肥前」といった<負け組>の強烈な批判的知性が浮かび上がってくるのです。

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一橋・東工大〜カウンターインテリジェンスの系譜

 話が突然変わるようですが、東京大学が官学の最たるものだとして、京都大学が批判的知性に見えることがありませんか?

 ノーベル賞も初期は京大ばかりで、自由な知性を印象づけた面があります。

 また、東大、京大などの「七帝」(北海道・東北・東京・名古屋・京都・大阪・九州)が「官学・帝大」であるのに対して、東京工業大学や一橋大学が、これらに対抗する批判的知性として、鮮やかな切れ味を見せることがないでしょうか?

 白川英樹先生を筆頭に、ノーベル賞級の業績をコンスタントに上げ続ける東工大。また都留重人、阿部謹也などのリベラルな学風とビジネス前線での切れ味で知られる一橋。

 思想家で考えれば東工大では鶴見俊輔が教鞭を執り(白川先生は在学中、鶴見助教授に教えを受けています)、吉本隆明が学び、吉本の師には数学の遠山啓らそうそうたる人物が並び、保守サイドでも一線を画す論客であった江藤淳こと江頭淳夫などが教鞭を執っている。

 また東大、京大、一橋、東工大が国立大学であるのに対して、慶應義塾や早稲田大学が私学の雄としてカウンターインテリジェンスとみなされることがあると思います。

 この一橋・東工大、また早稲田・慶應に共通する「ある起源の特徴」があるのです。関西で言えば同志社、関西大学(一部、立命館にも重なる面があると思います)などが典型的にこれらと重なる、その特徴とは・・・。

 「反薩長閥」 旧幕臣・親藩、あるいは土佐・肥前などの薩長以外の雄藩という「政治的負け組」が、反骨の志を懐に、堕落した長州閥あたりの思考停止と完全に一線を画した人材育成で天下国家・経世済民・殖産興業などを堂々と論じる面を、指摘できると思います。

 立命館は西園寺公望に代表される国際派公卿という特殊な背景を持ち、西園寺自身は長州・伊藤博文の腹心でもありましたが、閥と一線を画する意味で重なる面があるかと思います。

 ここで「長州閥」という言葉が現実味を帯びて見えなければ、以下すべてこの文字を「安倍政権」と読み替えても、だいたい同じ意味で通じますので、そのようにお覚えください。

 連載の文脈としては「ハワイ王国滅亡」を扱う順番ですが、実は明確な関わりがありますので、今回はこの中で「東工大」と「一橋」に焦点を当ててみたいと思います。

 一橋や東工大のような知性こそが、しっかりと日本をただしていくべきだと思うのです。

手島精一と矢野二郎:東工大・一橋と幕臣の反骨

 東京工業大学の起源は、1874(明治7)年に設立された東大の前身「開成学校」内の「製作学教場」にあるといわれます。

 ここから発展して1881(明治14)年「東京職工学校」が建学され、1890年に「東京工業学校」1901年に「東京高等工業学校」と発展的に改組、関東大震災を機に現在の大岡山キャンパスに移り、1929年旧制東京工業大学となり、今日に続く伝統が形づくられました。

 この東京工業学校を実質1人で立ち上げ、支えたのが手島精一氏(1850-1918)であると言って、大きな反対意見は出ないと思います。

 1890年、40歳で「東京職工学校」校長に就任して以降、1916年に東京高等工業学校長を引退するまで、生涯を東工大の基礎固めに捧げました。

 この手島氏は親藩・沼津藩の出身で、藩校で学んだ洋学に長けていたため、維新後は選ばれて年若くして岩倉遣外使節団(1871-73)の通訳官を務めたのち、官界での栄達といったことには一切関心を払わず、ただただ日本の工業の発展と、若い世代の育成に全力を尽くしました。

 東工大の原点、1874年の「製作学教場」設立とほぼ同じ時期、もう1つ別の動きがありました。

 前後する1875(明治8)年、駐米公使だった森有礼が帰国後、福沢諭吉らの薦めで、東京にとある私塾を作ります。「商法講習所」と名づけられました。翌明治9年には東京府に移管され、官立施設となります。

 このとき森有礼が駐清公使として在外となったため、米国駐在中に森のもとで代理公使も務め、設立以来「講習所」の教壇に立っていた矢野次郎氏(1846-1906)が「商法講習所」の経営に責任を持ちます。

 読者はだいたい想像がつくと思います、この矢野氏が開国派の幕臣だったわけです。

 矢野二郎は1863年、一度開港した横浜を再び鎖港するべく、江戸幕府が派遣した「横浜鎖港遣欧施設団」に随行を命じられ、英語・フランス語を駆使する通訳として活躍します。

 このとき矢野は満17歳、高校2年生で幕府の対仏交渉の通訳全責を担うという経験をして、人が伸びないわけがありません。

 実は矢野はこれに先立ち、1861年、英国公使ラザフォード・オールコックが水戸藩士の攘夷打ちに遭うと、事後談判の通訳として幕府と英国側との交渉一線に立たされています。

 16歳、高校1年で対英交渉の通訳全責を担い、続いて発生した「生麦事件」と併せて賠償交渉を取りまとめた経験を買われて17歳にして渡仏交渉に臨んだわけです。

 帰国後、幕府のフランス式兵制整備に参加しますが、維新時の戊辰戦争(1863年)には参加せず、官を辞して潔く下野してしまいます。

 このとき矢野二郎23歳。現在なら新卒大学生が社会に出る齢、矢野は最初の人生を終えて幕臣を引退、横浜に通訳事務所を開いて、これまた圧倒的な成功を収めます。

 しかし新政府はこれだけの人材を放っておきません。明治3年、再び今度は新政府に三顧の礼で迎えられ、ワシントンに赴任して代理公使として対米交渉の責任を負います。このとき25歳。すごい人生です。

 明治8年、米国から帰国した矢野は、先立って日本で設立されていた「明六社」=森有礼、福沢諭吉、西周ら開明的知識人は出自を超えて集まった現在の日本学士院の原型ですが・・・で議論されていた洋楽拡充・殖産興業の流れの中で「商法講習所」への参加を求められ、再びすべての官を辞してこれに参加しました。このとき30歳。

 こののち商法講習所は度重なる経営難を矢野の巧みな手腕で乗り越え、農商務省、文部省と移管を繰り返し、1887(明治20)年、日本初の官立高等商業学校「東京商業学校」として確立されます。

 東京市神田区一橋通町1番地、現在の千代田区一橋通り2丁目にできたこの学校の後身が何であるか、いまさらいう必要もないでしょう。

 関東大震災に伴って一橋大学は国立に移転、現在に至りますが、故地である神田一橋に現在、国際的なビジネススクールが先祖返り的に展開しています。

 矢野二郎氏はハイティーン時代、旧幕臣として、水戸浪士やら何やらが英国人を斬り殺す事件の交渉で一国の責任を持ったような出自ですから、それはまあ、筋金入りもいいところだった様子です。

 硬骨漢でワンマンの矢野はすっかりぬるくなってしまった明治20年代の東京高等商業学校の学生やスタッフとそりが合いません。三権分立など存在しない江戸幕府時代の日英・日仏交渉での通事ですから即断即決が普通だった人です。

 大変な胆力ではありますが「専権的」との批判を受けて学校騒動に発展、大量の退学者を出すとともに明治26=1893年、責任を取って校長職を辞します。48歳、人生50年とすれば、ここまでで一通り燃焼し切ったと言えるかもしれません。

 東京高商、現在の一橋大学が持つ合理的批判精神や一本筋の通った気骨は、善し悪しと別に明らかに、矢野二郎という個人の確信と精神とを強烈に受け継いでいると思います。これは東京工業大学が手島精一の精神に貫かれているのと、完全に同一の基礎を持つものと思います

 「国内の閥族同士の争いなどで右往左往していては、世界の第一線では全く通用しない!」

 「長州あたりの田舎侍の了見で、万国に通じる天道が実現できるか!?」

 明六社、慶応義塾、東京工業大学そして一橋に通底する、このような確信が、当時の当事者の精神の背骨にしっかりと一本、筋を通していました。現下の情けない政権の右往左往にそれと同じことを指摘しないわけにはいきません。

 私の対案もまた同様で、井の中だけで通用するアホみたいな了見で、右だ左だ猿だ犬だと吼えてみても、下手の考え休むに似たり、そんなことでは我が国の3年5年先も危なっかしくて見ていられない、という話を、今回は対EU学術外交で滞在中のミュンヘンから出稿しているわけです。

 間違っても「反日」の何のという寝言は混ぜ込まないでいただきたいと、一応釘を差して、まとめとして「ハワイ王国滅亡」と「教育勅語」などとのつながりを記しましょう。

「条約」で国は滅ぶ〜死ぬか生きるかのインテリジェンス

 手島精一、矢野二郎といった人の事績に、やや思い入れをもって長文を記したのは、善くも悪しくもこの人たちの確信と仕事がなければ、現在の私個人の仕事もないからにほかなりません。

 森有礼から引き継いで矢野二郎が経営を始めた「商法講習所」に、箕作秋坪、津田真道、箕作麟祥ら津山藩出身で幕府の蕃書調所で外事に携わった明六社メンバーの薦めで、岡山の田舎から出てきて学んだ中に私の曽祖父がありました。

 母の祖父、藤田敏郎は津山の田舎から東京に「留学」、東京府管理下の商科学校でこのモーレツ矢野二郎に親しく教えを受け、卒業後は結婚、長男も生まれ、津山藩OBの共同運輸会社で禄を食んで骨を埋めようと決意していた22歳のとき、ハワイ王国・カラカウア国王の来日で急遽決まった公式移民団とともに、外務省出仕。

 ホノルル着任を余儀なくされ、そのまま終生、外交官の生活を送ることになります。井上馨から人材を求められたワンマン、矢野二郎の差配でした。

 水戸藩士、薩摩藩士らによる「オールコック襲撃事件」「生麦事件」などの「攘夷討ち」に対して、「何たることをしでかしてくれたんだ!! この世間知らずの田舎侍共めが!!!」と思いつつ、高校生の年齢で幕府を代表する英語ベースでの平和裏の交渉を、決死の覚悟で進めたティーン・エイジャーだった矢野二郎から、曽祖父がどのような指導を受けたか、今となって詳細は分かりません。

 しかし、貿易会社から転じて外交官としてのホノルル着任、直前まで駐米代理公使として条約改正の下交渉にあたっていた矢野の薫陶と影響は明らかで、曽祖父は相次ぐ「不平等条約」で国を壊され、「押しつけ憲法」で保護国化されてしまったハワイ王国の国難を、幕臣から岩倉使節団、駐清領事を経てハワイに送られた安藤太郎氏の右腕として、安藤氏ともに日本に送り続けた。

 「不平等条約」や「条約改正」を、何かピンポイントの軽いことと誤解している読者コメントを目にします。

 よろしいですか。不平等な条約で国は滅ぶのです。「保護国化」も条約、「日韓併合」も不平等条約、「ハワイ併合」も、経済と武力を背景に次々と無理難題を押しつけ、一方的な条約を無理やり結ばせた末に決めたこと。

 条約で国は滅ぶのです。

 日本が「関税自主権」を回復するのは、やはり経済力と武力を背景に、朝鮮という植民地を得て、初めて列強から「その一」と認められた1911年になってからのことです。

 44年間、明治時代のほぼすべてを通じて、半植民地化の危機と常に相対していたことを、紙の上の歴史のお勉強ではなく、多くの日本人、とりわけ若い世代に、祖国の現実として理解されたく思います。

 少なくとも我が家では、その種の常識や外交マナーを家の中でガキの時分から、かなり徹底して教え込まれました。

 曽祖父が祖父にこれをやり、祖父が母にこれを徹底して増幅、母はインターナショナルスクールで学んでさらに度合いを極端にして、生れ落ちた直後からこれをやられてしまいましたので、私自身、こんなになってしまいました。

 今まで表に書いたことのない話ですが、昨今の状況はあまりに見ておられず、自身のルーツに由来する確信として、今回銘記することにしました。

 この時期に準備されたのが大日本帝国憲法であり、教育勅語であったのは前回も触れたとおりです。

 駐清領事の北京在勤からハワイ勤務を命じられた領事の安藤太郎氏(この人事だけからでも、何を考えていたか露骨に分かるでしょう。で帰国後に憲法と勅語が制定され、藩閥は日清戦争を仕かけました)は、10年前 岩倉使節団の通訳として東工大=東京高等工業建学の父、手島精一氏と同僚でした。

 のちに藤田敏郎は、シカゴで育った長男がエンジニアを志望した際、手島氏にも相談してデトロイトのミシガン大学に進学させ、草創期にあった自動車産業の第1世代に送り出すことになります。この長男、つまり私の祖父と、そしてその末娘だった母を通じて

 「田舎侍」

 という言葉を、私自身幼時からどれだけ聞かされてきたか分かりません。

 ここには2つの意味が籠められていました。外交官の曽祖父が「世界を知らない田舎侍が!」というのが1つ。

 それから、第1次大戦中のゼネラル・モーターズ(GM)のエンジニアとしてスタートした祖父が、昭和期に帰国して、またしても国際社会の第一線を知らない閥族とりわけ軍閥を指して吐き捨てるように言ったという「田舎侍」。

 いずれも、山県有朋あたりを筆頭とする世界を知らない、また理解する能力も気力もなく、国内の利権でお腹いっぱい、得意満面コンプレックス満載の長州閥やら軍閥やらを見て、

 あえて、家の中で使われてきたとおりの言葉、今日メディアで使わない用語ですが、を明記すれば、

 「土人やシナじゃあるまいし国粋主義高山彦九郎、田舎侍三跪九叩頭」

 「陸軍の 乃木さんが 凱旋す スズメ メジロ ロシヤ 野蛮国 クロキン キンタマ マカローフ フンドシ 締めた タカジャッポ」

 「ポンやり り り 李鴻章のはーなぺちゃ ちゃんちゃん坊主の首とって 帝国万歳大勝利・・・」

 後半は当時の子供の間に流行ったしりとりの歌で 陸軍「の」「のきさんが」「がいせんす」「すずめ」・・・と続きます。

 このあたりがメディアに書ける限界と思いますが、それはまあ、家の中では言いたい放題で、合理的な思考の欠如した、ああいうバカにだけはなってはいけない、と自分の子供には教え続けた。

 私は幼児期に母親からこれを「キンタマ」だけ「キンマ」と変えて教わり、のちに母の兄である伯父(桐朋学園創設に尽力した藤田英雄)から「キンタマ」と訂正されて焼印を捺されました。

 どちらもシカゴ育ちの祖父の子ですが、大正2桁の世代で、当然日清日露戦争期などは知りません。教えられて覚え、それを私にも教えた。これを半世紀近く私自身もずっと記憶していますが、

 例えば

 「フンドシ締めた高シャッポ」

 が

 「ポンヤリ」

 している、というのが何であるか、読者にご想像いただければと思います。私は「ある解釈」でこれを 刷り込まれました。

 のちに人為的に作られた「教育勅語」の擬似宗教化、過剰な天皇崇拝と思考停止にしても、幕臣外交官はかなり冷ややかに観察していました。

 この1つの表れに、旧幕臣系外交官が軒並みクリスチャン改宗した経緯が挙げられます。

 政教一致型の天皇崇拝が危険であることは、幕末維新を生きた人、特に負け組となった人々は誰もが基本的に了解しており、そこから様々な動きも出てくるのですが、紙幅も尽きたのでひとまずここまでとします。

 次回は相次ぐ不平等条約の押しつけでハワイ王国を丸裸にし、ついには併合してしまった19世紀末年米国の太平洋侵出に話を戻しましょう。

 安政の修好通商条約締結から桜田門外の変、浪士たちによる「攘夷討ち」尻拭いの和平交渉にあたった当事者が維新前後を一貫してどのように日本を立ち上げ、日本を守ってきたか。

 「田舎侍」の了見では到底無理な話でした。残念ながらそのレベルの落書きが、ネットの日本語でやたらと目につきますが、井戸の中を半歩出れば、世界で到底通用しません。

 学術に引きつけてまとめるなら、東大あたりの中でだけ通用する、田舎侍の了見では、世間やお天道様に照らしてまともな仕事になるか、はなはだ心もとない。

 さらにそれが、フンドシしめた高ジャッポのポンヤリのご機嫌取ることばかり考えて「全く問題ない」閣議決定などヨイショしていた日には、いったいどんなことになることか、知れたものではありません。

 で、トーダイ出身者は、それが正解と丸暗記してしまうとその方向にドッと押し寄せる、露骨な悪傾向が観察される。残念ですが、これがここ140年来の東京大学の事実にほかなりません。

 そう言えば今年、2017年は東京大学建学140年目にあたるのに 、いま気がつきました。

 紛れもなく東大出身で東大在任も20年になる小生が書いてるんですから、信用してもらってよいと思います。

 建学以来の東工大、一橋の精神、批判的建設的なカウンターインテリジェンスがあったからこそ、近代日本の栄光がありました。

 これを失えば、日本に未来はないでしょう。必須不可欠の叡智と思います。

筆者:伊東 乾