金正男(キム・ジョンナム)氏殺害事件に関与したと見られている北朝鮮の秘密警察である国家保衛省(以下、保衛省)に異変が起きているようだ。

平安南道(ピョンアンナムド)のデイリーNKの内部情報筋によると、保衛省に対して1ヶ月にわたって集中検閲(監査)が行われ、道、市、郡の保衛部長、政治部長、処長、課長などが次から次へと平壌に召喚されているというのだ。

女子大生すらも拷問

韓国の情報機関である国家情報院(以下、国情院)は先月、保衛省のトップだった金元弘(キム・ウォノン)氏が解任されたと伝えた。それ以降も、省内では粛清の嵐が吹き荒れているようだ。処長、課長クラスの中には、自己批判書を書くだけで無罪放免にされるケースもある。その一方で、解任されたり、逮捕されたり、忽然と姿を消したりする人もいる。

あまりもの悲惨な状況に、保衛員たちは「これは第2の金炳夏(キム ・ビョンハ)事件ではないか」とささやいている。また、今後保衛省の地位がますます下がり、金炳夏事件の時のように名前も変えられてしまうのではないかという心配の声も上がっているほどだ。

保衛省は、韓流ドラマの動画ファイルを保有していたという容疑だけで、女子大生にせい惨な拷問を加える残虐部隊として知られている。そのせいで、保衛省に対する民衆の怨嗟の声は強い。そうしたこともあり、多くの幹部は無事ではいられないだろうとも言われている。

(参考記事:北朝鮮の女子大生が拷問に耐えきれず選んだ道とは…

では、泣く子も黙る保衛員たちが恐れる過去の大粛清の悪夢「金炳夏事件」とは、どのようなものだったのだろうか。

女性収監者に「性暴行」も

1973年2月15日、住民の動静を探るために警察にあたる社会安全部(現人民保安省)から独立させる形で、国家政治保衛部(以下、政治保衛部)が新設された。トップである部長に就任したのは金炳夏氏だった。

1965年、金正日氏がインドネシアを訪問した際、人民軍護衛局副局長だった彼は機転を利かせて金正日氏を爆弾テロから救ったことで、金日成氏、金正日氏の目に留まり、昇進していった人物だ。

金炳夏氏は、悪名高い「出身成分」を制度化した。国民を「核心」「動揺」「敵対」の階層に分ける事実上の身分制度だ。そして、成分の悪い人、ちょっとした間違いを犯した人を容赦なく粛清した。口を滑らせて政権を批判した人や、金日成氏の顔写真が載っている労働新聞を丸めてタバコを吸った人を逮捕し、この世の地獄と称される収容所へ送った。処刑された労働党や行政機関の幹部は数知れない。

保衛省に、勤務経験があり2004年に脱北した脱北者は、労働党細胞委員会で同僚だった定州(チョンジュ)市保衛局のチョン・ミョンハク部長が、次のように語っているのを聞いたという。

「今、我が国(北朝鮮)が平穏なのは、あの時(金炳夏事件)に反対派をほとんど粛清したからだよ」

粛清がいかに熾烈だったかがわかる一言だ。

しかし、政治保衛部の大きくなりすぎた権力や、横暴なやり方に反発も高まっていく。

1980年代初め、金日成氏が平安南道安州(アンジュ)市の南興(ナムン)化学連合企業所を訪れた。金日成氏は、功績を上げたある労働者に会って話をすることになっていたが、工場の政治保衛部がやめさせた。理由は、その労働者の出身成分が悪いということだった。それを知り不満を抱いた工場の責任秘書は金正日氏に「保衛員が党の群衆路線を妨害している」と密告した。

金正日氏は、中央党8課(政治保衛部担当)の副部長を責任者とする党中央組織指導部特別グループを派遣し、徹底した検閲を実施。そのせいで、政治保衛部はズタズタになる。幹部はもちろんのこと、金炳夏氏の家族、親戚すべてが厳しい取り調べを受けた。しかし、本人は「プロレタリア独裁を弱化させる」との理由で検閲を拒否した。

その報告を受けた金正日氏は、「秘密裏に除去」することを命じた。追い詰められた彼は1984年2月、自ら命を絶った。そして、「国家政治保衛部」は名称から「政治」が取られ、国家保衛部に格下げされる。

その後、国家保衛部は1993年には国家安全保衛部に、そして昨年には国家保衛省に改称された。この改称については、「部から省への格下げだ」という見方もあるが、これを判断するにはもう少し時間が必要だ。しかし、国情院や今回の内部情報のように何らかの異変が起こっている兆候は漏れ伝わってくる。

金正恩党委員長の時代になって、我が世の春を謳歌してきたが保衛省だが、それも終わろうとしているのだろうか。しかし、仮に保衛省に大粛清の嵐が吹き荒れ、治安組織としての地位が下がったとしても、金正恩式恐怖政治が和らぐことを意味するわけではない。金正恩氏は独裁体制を維持するために、今後も残虐な圧政を継続していくだろう。