はぎもと・きんいち=1941年5月7日生まれ、東京都出身

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チャップリンや榎本健一など喜劇映画の俳優に憧れ、コメディアンを目指した萩本欽一。1966年に坂上二郎と結成したコント55号では、舞台を駆け回る激しい笑いで国民的スターに。「コント55号の世界は笑う」('68 〜'70年フジ系)、「ぴったしカンカン」(’75 〜’84年TBS系)など、多くのレギュラー番組に出演する一方、1971年ごろからはソロ活動も増やす。司会のみならず、自ら企画・構成・演出にも携わり、レギュラー番組は軒並み高視聴率を獲得。その合計が100%を超えたことから“視聴率100%男”と呼ばれた。テレビが各家庭に普及し始めた1960年代から半世紀にわたり、時代ごとにバラエティー番組の在り方を模索し続けてきた“欽ちゃん”こと萩本欽一は、テレビが置かれる現在をどう見ているのだろうか。

80年代半ば、「欽ちゃんのどこまでやるの!」「欽ドン! 良い子悪い子普通の子」「欽ちゃんの週刊(欽)曜日」とヒット番組を連発し、“視聴率100%男”と呼ばれた萩本欽一

■ 今起きている状況をそのまま見せるのがテレビ

――コント55号は浅草の演芸場から評判が広まって、テレビ局から出演のオファーがあったそうですが、当時のバラエティー番組に出演されてみて、どのように感じましたか?

「まず驚いたのは、何度も練習するテレビ界のルールだね。リハーサルから始まって、ランスルー、通し稽古、本番って合計4回も。それがずっと窮屈でさ。当時は、舞台の様子をそのまま中継するのがバラエティー番組だったの。僕がコント55号でテレビに呼ばれ始めた1960年代の終わりごろの話だよ」

――舞台の中継ということは、むしろドラマの要素が強かったんでしょうか。

「そう! しっかり作られた台本の通りにやるお芝居だったの。ところがね、あるときの生放送中にステージの幕のスイッチが故障して、二郎さんが登場したらすぐに幕が下りちゃった。そしたら二郎さん、『今日はもうおしまいのようですね。では、ごきげんよう』ってお別れのあいさつをして、衣装まで脱いで帰り支度を始めちゃったの。そしたら今度は逆に幕が上がって、二郎さんが急いで舞台に戻ってきてさ。せりふをちょっと言うたびに、幕が上がったり下がったりして、もうコントどころじゃないんだよ(笑)。でも、それを見てるお客さんはバカウケ! 今起きている状況をそのまんま見せるのがテレビの面白さなんだって、そのとき気付いたね。予想外のトラブルやハプニングを『いいことが起きた! やったぞ!!』って、利用して遊んじゃう、という」

――そのあたりは二郎さんの名人芸ですよね(笑)。

「うん、二郎さんは慌ててはいるんだけど、喜んじゃってるのが僕には分かるから(笑)。だけど、そのあとすぐ幕が直っちゃってさ。残念だったね。ウケがずっと続いてたから、あと15分くらいは面白くできると思ったんだけどね。でもそのときにね、舞台の袖にいるスタッフは『大変だー! これは問題になる!』とか言って、放送を中止しようとしたの。稽古で積み重ねたものなんて“過去”でしかないのにね。…とまぁ、こんな理由があって、コント55号のスタイルができあがったわけ。どうなるか分からないアドリブ主体のコント、スリル満載のコントがね」

■ 「どうしてダメなの?」って言い続けたらテレビが自由になった

――当時、「コント55号は同じネタを二度やらない」と宣言していたそうですね。

「毎回が二郎さんとの真剣勝負。だから、正しくは『二度やらない』じゃなくて『二度できない』だね。そもそも舞台や映画で稽古しないでアドリブばかりやったら怒られるでしょ? テレビに適した手法を探った結果だったの。僕と同世代のディレクターの中にもテレビで新しいことをしたいって考える人もいたから、どんどん試すことができた。そのうちの一つが『欽ドン』(『欽ちゃんのドンとやってみよう!』’75〜’80年フジ系)。投稿されたはがきを基に、いろんな出演者と僕が掛け合いをする構成の番組で、20回以上稽古を繰り返すんだけど、本番では僕が全く違うことをするわけ(笑)。それは本番で“今”をやるためなの。そこで出演者も予定外の動きをしちゃったりするからね。まぁ、そもそも僕は台本を覚えないんだけど」

――長江健次さんが、「『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(’81〜’83年フジ系)で、12時間も練習したセリフを欽ちゃんが本番で急に変えるから絶句した」と後年コメントされています。

「困ってる姿って笑えるよねぇ(笑)。作られた笑いじゃないからさ。思ってもみないことを言ったり、新鮮な動きが飛び出す。急なアドリブの連続でカメラマンも焦ってたね。撮れないほうが自然なんだから。その面白さこそがテレビ。最初はカメラマンにも困るって言われたよ。でも、僕は言い返したの、『野球の中継はボールがどこに飛ぶか分からないのに、撮れてるじゃない?』って。そうするとさ、だんだん予定外の急な動きも撮れるようになっていくんだよね。あと、CMも楽しく見てもらうために間に10秒くらいの短いコントを入れたり。

それと、当時のテレビって、出演者は笑い声を小さく出さなきゃいけなかったの。これも音声さんに聞いたら、『ほかの人がしゃべるせりふが聞こえなくなります』って言うのよ。それじゃあ、せっかくの楽しい会話が死んじゃうよねぇ。僕はテレビの前のみんなに『なんだか楽しそうだぞ』って感じてもらいたかったんだよね」

――今では当たり前になっているテレビの多くの手法が、萩本さんの番組で定着しているんですね。

「最初はスタッフから『ルールで決まってるからできません』って反対されたりしたんだけどね、『どうしてダメなの?』って言い続けると意識が変わる。『できない!』『ダメ!!』っていう規則を、一人一人がくぐり抜けて、結果的にテレビが新しく自由になっていった感じだよね。『欽どこ』(『欽ちゃんのどこまでやるの!』’76〜’86年テレビ朝日系)でも、客席にマイクを置いて、“クスッ”ていう小さな笑い声も録音できるようにして。大爆笑だけじゃワザとらしいでしょ?」

■ 窮屈な時代だからこそ、新たな才能に期待してる

――そんなふうにバラエティー番組の在り方を時代に合わせて作り変えてきた萩本さんは、テレビというメディアの現在をどうごらんになっていますか?

「僕が二郎さんとテレビに出始めたころの、窮屈な時代に戻っちゃってるような気はするな。でもだからこそ、それを打ち破る才能が必ず登場するとも思ってるの。僕が今やってる『欽ちゃんのドーンとプラチナ!』(FRESH! By AbemaTV)の狙いは、“とにかくやってみること”。初回の放送で『ここから何かが生まれる番組です』って言ったんだけど」

――そういえば、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」も、当時「テレビ局がやるはずがないことをやろう」というコンセプトから生まれた番組だったとお聞きしたことがあります。

「そう! スタートはラジオで始まったからね。だから、『ドーンとプラチナ!』って原点回帰なの。それは閲覧者のみなさんからの投稿で、毎週気付かせてもらってます」

――2015年には新たなチャレンジとして、駒澤大学の社会人入試に合格。74歳にして大学生になりました。

「知らない学生も“欽ちゃん”って呼んでくれるのがうれしいね。いろんな人に会えるしさ。おととしの箱根駅伝に、番組の収録も兼ねて駒澤大学チームの応援に行ったの。最後に走った工藤(有生)選手にゴール後に話を聞いたんだけど、僕の前に、さんざんリポーターとか記者の人からインタビューを受けてて。だから僕は、リポーターたちと同じ話になるのはつまんないと思って、『工藤くん、今日はしりとりで話しましょう』って言ったの(笑)。で、僕が『よく頑張った』って言ったら、工藤くんが『たすき』って答えてくれて、そこから『絆』『仲間』って、もう見事に決まった!(笑) 長々と語るよりも、要点だけポッと言うのが良かったね。あまりにもいい言葉を出してくれたから、『サンキュー!』ってうれしくなっちゃった。

やっぱり他と違うことをやらないとダメ。それこそがテレビなんだから。テレビに関わるみんなも、とにかく勇気を持ってやらかさないと。なのに、似たような番組ばかり作ってるような気がするね。“失敗もテレビの一つ”っていう考え方に行き着けば、きっと良くなっていくはずだよ」