左から宮台真司、中森明夫

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 社会学者・宮台真司の映画批評本『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』の刊行を記念し、著者・宮台と作家/アイドル評論家・中森明夫のトークショーが、2月20日にLOFT9 Shibuyaにて開催された。リアルサウンド映画部では、2人が本の内容から話題の社会問題までを語り尽くした当日のトークイベントの模様を、両人の確認・加筆の上、前後編の2回にわたって掲載する。

参考:宮台真司×富田克也×相澤虎之助 特別鼎談「正義から享楽へ 空族の向かう場所」

中森:『正義から享楽へ』は映画の本であることに加えて、今を読み解く時代論としても出色だと思いました。1年だけでこの文量、しかも最新の映画だけでなく過去作も参照しつつ書き上げてしまうすごさを感じましたね。僕なんか2年に1冊くらいだから(笑)。最初に聞きたかったのが、『ダ・ヴィンチ』での映画連載をまとめた『<世界>はそもそもデタラメである』が、何年前でしたか?

宮台:十年前の2008年です。01年から連載を始め、終えたのが08年。8年間の連載を『絶望・断念・福音・映画』と『<世界>はそもそもデタラメである』にまとめました。

中森:つまりは、いろいろお仕事の事情もあると思うけれど、映画評を休止してそのまま2010年代に入り、16年にいきなりこの本が出てきたと。僕も近年、映画について語ることがすごく多くて――まあ、僕はアイドル評論家だから女の子が出るような映画なんだけれど、それでも15年、16年と、日本映画だけでも語るに足る作品が増えましたよね。『シン・ゴジラ』、『君の名は。』や『この世界の片隅に』、さらに言うと『FAKE』や『リップヴァンウィンクルの花嫁』。そこでこの本が、すごくシンクロしている。そういう予感はあった?

宮台:ありました。3年前、当時コアマガジンの編集者だった辻陽介氏と「最近、面白い映画が多いね」と話して、彼が担当する雑誌で映画批評の連載を再開したのがきっかけです。それを読んだリアルサウンドの神谷氏から、口述ベースで構わないのでウェブ連載してほしいと頼まれて、今回の本につながる文章が溜まっていきました。

 辻氏とこんな話をしたんです。近代社会がグローバル化で故障しているというより、そもそも社会――三千年前から拡がった大規模定住社会――がクソなのだという感受性が映画に露出してきている、と。ジョナサン・グレイザー監督『アンダー・ザ・スキン』(2013)を最初に話題にした記憶があり、実際この映画について書きました。

 映画だけじゃない。ビル・ゲイツが出資したビッグヒストリー、AIの特異点問題などポストヒューマン論、先住民自身が行うネオ人類学、分子遺伝学や認知考古学や進化生物学、昨今の精神分析学など、言語獲得が可能にした定住社会、特に書記言語が可能にした大規模定住社会に、無理を見出す「認識のクラウド」が出来つつある。

 要はこんな感じ。社会は全くクソだが、自分のポジションが悪いからとか戦争が起こっているからとかじゃない。<クソ社会>である理由は、ヒトが言語の自動機械にならないと営めないからだ…。因みに分子遺伝学などの最先端では、言語獲得が4万年前、定住化が1万年前、文字言語による大規模定住化が3千年前。全て「最近」の話だ。

中森:本の出だしにこう書いてありますね。「私の映画批評は『実存批評』という変わった形式を採る」と。蓮實重彦の表層批評と真っ向からぶつかるもので、これが面白いと思った。蓮實が生んだ一番偉大なものって、(蓮實氏が立教大学講師として、映画表現論を教えた)黒沢清監督じゃないですか。この本では、その黒沢清と蓮實表層批評と真逆の立ち位置である宮台真司が対談している。そして、宮台さんが黒沢清をどんどん追い詰める(笑)。

宮台:僕が話すと監督がいつも戸惑われるので(笑)、今回のインタビューでは黒沢監督の無意識を精神分析すると宣言しました。無意識について語るから「見えるものだけ語る」というフレコミの表層批評の反対です。但し蓮實氏は充分「見えないもの」を語っています。でも彼が「見えたものしか語らない」と言った同時代の理由があります。

 蓮實さんが『シネマ69』に映画批評を載せ始めた60年代末は『映画芸術』『映画批評』『映画評論』など映画批評誌が全盛だったけど、紋切型の左翼図式に映画を当て嵌めるだけのクズの集塊でした。実際「裏目読み批評」を自称していたしね。蓮實氏が「自分が見た映画のことを語りたいんじゃないなら、黙れ」と言ったのも、当然ですよ。

 映画には氏が「フィルム的欲望」と呼ぶものに関連する享楽があり、それを射程に収めないなら「映画の」批評ではない。よく分かるけど、蓮實氏以降の映画批評家がエピゴーネン(物真似野郎)に堕した結果、氏の半分しか才能のない批評家が物真似すると4分の1以下の出来になるという醜態が展開しました。ならば表層批評は氏だけでいい。

 僕の映画批評の見かけは蓮實氏と全く違うけど、ものの見方がさして違うとは思っていません。理由は簡単。僕の実存批評が、僕が<世界体験>と呼ぶものの享楽を主題にし、とりわけ言語的な自動機械にどれだけ抑圧されているかを問題にしているからです。フィルム的享楽を主題とし、左翼的紋切型を退けた表層批評に、似た構図です。

中森:何が言いたかったかというと、若い連中を励ます意味でも思ったんだけれど、映画を観て、何を書いてもいいんですよね。

宮台:もちろん。

中森:蓮實以降、彼の仕事が抑圧的に働いて、「映画批評はこうかくものだ」みたいなルールができてしまった。宮台さんはそれを突破しているんじゃないかと思う。

 さっき楽屋でも話したけれど、僕ら同世代でね、やっぱり宮台真司というのは大きかったんですよ。80年代まではそれこそ蓮實さんを始め、ニュー・アカデミズムというか、ものを考えるような本を書くという状況があった。それが90年代にものすごく失速して、そこで宮台さんが現れたんですよ。00年代の評論家――具体的に名前を出してしまうと、宇野常寛や濱野智史、津田大介まで含めてもいいと思う。彼らは優秀だし、個人的には応援もしているけれど、やっぱり宮台フォロワーですよ。蓮實重彦や柄谷行人ではなく、宮台真司の本を読んで、宮台メソッドの社会学的教養を身につけてものを語る人たちが陸続と出てきている。でも、今にしてもこれだけ「クソだ」と書ける人はいませんよ。本を出すなら、校閲ガールが「クソが多い」って赤字を入れるだろうし、速水健朗あたりは全部修正すると思う(笑)。なぜ宮台真司は、「クソ」と言えるのか。ラジオでも「クソ、クソ、クソ、ケツ舐め、クソ」でしょう?

宮台:正しさを追求すると享楽から遠ざかり、享楽を追求すると正しさから遠ざかる昨今だから、正しさを追求しながらも享楽を手放さないために「ケツの穴から糞が出ていても米国のケツを舐めるかぁ」とやる(笑)。22年前にTBSラジオから出演依頼された時から意識していた戦略で、実際「僕にクレームを伝えたらやめる」と言ってきました。

 でもキャラが確立するとクレームは収まります。10周年パーティでプロデューサーに尋ねたら、大変なクレーム数だったのが2年でやんだと。都立大赴任が援交問題で活動し始めた93年だったけど、山住正己総長が99年の退官パーティで「最初の2年間はクレームの嵐だったが、学問の自由のために僕に伝えなかった」と教えてくれました。

 今どきの若い物書きは「炎上」を気にして発言を抑制します。誰もがスマホで常にSNSで繋がるネット社会だから仕方ないかもしれない。でも僕は『噂の眞相』に40回書かれても行動を一切セーブしなかった。今も変わりません。ただ東浩紀氏は、ネット社会化する前に変人ポジションを獲得したから可能だったのだ、と分析しています。

中森:「世界はクソ」問題とかかわるんですけど、僕らは70年代に10代を過ごしたでしょう。当時に初めて映画を観に行ったし、宮台さんとはよく文芸坐地下劇場の「陽のあたらない名画祭」の話になったりして。70年代はアメリカ映画も、かなり変な作品が多かったですよね。

宮台:アメリカン・ニューシネマだね。

中森:そして2015〜16年になって、映画が娯楽として面白いだけじゃなく語るに足る作品が、またにわかに世界にも日本にも増えてきた。これは時代の変化と呼応することですよね。時代回帰的なことなのか。

宮台:テレビに地位を奪われたアメリカン・ニューシネマの時代もそうだけど、ネットに地位を奪われていく今も「映画の危機」で、その意味では回帰している。今回インタビューした黒沢監督も含めて多くの監督やプロデューサーが意識しています。日本はテレビ局を入れた制作委員会方式で、テレビとの内容的差別化さえ難しいから尚更です。

 アメリカではNetflixやHuluなどネットTV会社に映画の才能が奪われて、サーガのような大規模な構想の作品が専らネットTVで作られます。「映画でなければ出来ないことは何か」を映画人が真面目に考える時代です。単に娯楽なら映画は負ける。安さや手軽さはネットTVが断然上。アトラクションの享楽もディズニーランドが断然上。

 アートの定義は「鑑賞した者を元に戻れなくするもの」。回復不能な傷をつけるのです。娯楽で負けたらアートで勝負すればいい。ハリウッドは元々ユダヤ人脈で、90年代の沈滞以降中国やインドなど様々な国の人が支えた。ハリウッドのモードはアメリカのそれと一致しないから、アメリカのダメな所を作品化して観客を傷つけられます。

中森:確かに70年代、ニューシネマが出てきて以降のハリウッドはダメになったんですよね。それで、新しい環境ができてきた。加えて、今の時事的な問題に接続すると、トランプ政権に一番反発しているのは、ハリウッドじゃないですか。いいか悪いかは別として、日本の芸能人は安倍晋三批判なんてしないけれど、ハリウッドはメチャクチャで。そこがアメリカの面白さでもありますよね。ハリウッドはアメリカそのものではないけれど、極めてアメリカ的でもある。

宮台:アメリカの全アップルストアで、プーチンがトランプのオカマを掘っている絵柄がプロジェクションマッピングされたの知っている?

中森:見た見た。

宮台:全体がシンクロしないアメリカっていい国だ。文字通り「右へならえ」の日本だったら炎上を恐れちゃう。

中森:去年の夏、中上健次の故郷(和歌山県新宮市)にある熊野大学で、田中康夫、浅田彰の夏期特別セミナーに出演したんですよ。そこで浅田彰と話していて、浅田は「ヒラリーがいい悪いではなく、いくらなんでもトランプにはならないだろう」と。僕は「いや、アメリカ人はバカだから、絶対トランプになるって」と言っていたんです。予想が当たったから言うわけじゃないけど、トランプのほうがどうやったって「面白い」でしょう?

宮台:間違いない。

中森:オバマだって面白かった。アメリカは、そうなっちゃう国なんですよ。『正義から享楽へ』を読んで聞きたかったのは、宮台さんは結局、トランプを肯定しているんですか?

宮台:トランプの政策や価値を内容的に支持してはいない。トランプが当選しなかったら、資本主義と主権国家と民主政治のトリニティからなる近代社会なんて、そもそも不可能である事実が暴露されず、「見たいものしか見ない」弥縫策が続き、新しい歴史のページが開かれずに終ったからです。むろんそれは「面白くない」のだけどね。

 師匠の1人だった廣松涉氏が、自分の活動目的は歴史の推転を速めることだと仰言っていた。「どうせ来るなら、早く来い」と。来るはずのないものが来たらマズイが、トランプによってもたらされるものはどうせ来るもの。実際ずっと前から存在した「見たくないもの」が露呈しまくっているでしょ。それがなきゃ「茹でガエル」になってた。

中森:問題の全体像や本質がモヤモヤっとなっちゃう。

宮台:中森さんに面白いネタを振ります。トランプ政権のイデオロギー的な後ろ盾は大統領首席補佐官スティーブ・バノン。大統領を取り巻くオルタナ右翼の1人だ。リチャード・スペンサーやピーター・ティールも有名だね。スペンサーは自身のツイッターアイコンがアキバ系。オルタナ右翼にアキバ系のオタクが多いのは周知ですよね。

 バノンの思考は黙示録的。「世界が破滅するときに神が現れる」という思考です。ヤハウェ信仰の最大の難点は「なぜこれほどしても神が動かないのか」でした。どんなに生贄を捧げても動かない。神と取引する瀆神行為だからじゃないか。そこでバビロン捕囚時代に「罪」が浮上した。でも「罪」を犯さないように頑張っても神が動かない。

 ユダヤの悲劇が大したものじゃないから神が動かないんじゃないか。ならば世界が破滅すれば神が動いてくれる。こうした願望的思考から新約聖書の「ヨハネの黙示録」みたいな観念が生まれた。因みにイエスは「罪を犯さないから救え」も神に取引を持ちかける瀆神だとし、「常に既に神が動いている」証拠を見せます。「奇蹟」と呼ばれます。

 バノンは80年毎に米国史が転換するというウィリアム・シュトラウスとニール・ハウの共著『四度目の転機』(1997)の影響を受けています。今回が四度目の転機。大恐慌(1929)に始まる期間が終ろうとしている。ならば旧時代の残滓を叩き潰せ。だからスクラップ&スクラップを信条とします。これを聞いてオウム真理教だと思いました。

中森:ああ、ハルマゲドンだ。バノンって、本当にマンガみたいな男でしょう? しかも、けっこう雑な絵で描いたマンガで。

宮台:バノンはカトリックだが、カトリックは普通ハルマゲドンを重視しない。黙示録は「動かない神」に悩むユダヤ教徒のものだから。さて日本のアニメは黙示録を反復してきた。火の七日間戦争の後に救世主が登場する宮崎駿『風の谷のナウシカ』(1984)。ハルマゲドン後のネオ東京と第3新東京市を描く大友克洋『AKIRA』(1988)と庵野秀明『エヴァンゲリオン』(1995)。

 出発点は『風の谷のナウシカ』です。宮崎駿『未来少年コナン』(1975)も同じ設定だけど、物語として活きてはいない。実際ナウシカ以降十年間のメタルPVは軒並み「核戦争後の共同性」を描いていました。その流れの上に鶴見涉のハルマゲドン待望論もオウム真理教もありました。『終わりなき日常を生きろ』(1995)に書いた通りです。

 オルタナ右翼の黙示録的世界観も、ユダヤ教にルーツがあるにせよ、日本のアニメに触発されたのかもしれない。バノンがICBM完成前に北朝鮮を叩けと限定核使用をけしかける可能性があるけど、ピョンヤンに核が打ち込まれれば日本にノドンが降り注ぐ。漫画やアニメの悪影響を言うなら、大股開きのエロじゃない、ナウシカだ!

中森:宮台さん絶好調だね。ひとつ聞きたかったのは、この世界はクソだというのはすごく納得いくんだけれど、例えば今の若い学生がこの本を読んで、そのことに気づいちゃった場合、メンヘラっぽくなっちゃうんじゃないかと。トランプやバノンにはなりたくないし、オウムみたいなものはダメだし、と言ってSEALDsの奥田愛基みたいにリア充やってたらメチャクチャに絡まれて、殺人予告されたり。世の中がクソだとわかっていて、「正義から享楽へ」という方向にどう転換できるのか、ここが聞きたかった。

宮台:いい質問。ISIL関連とされる先進国の昨今のテロはISILはあまり関係ない。2年前から落ち目になったISILがこう呼び掛け始めた。先進国で苦しむ者よ、俺たちに連帯して糞な社会をブッ潰せ。宗教も教義もない。<クソ社会ブッ潰せ系>のミメーシスがあるだけ。ナウシカ批判は本当は冗談で、問題はこの感じ方にある。

 感じ方の淵源は何か。僕は中高時代マルクーゼとライヒにハマります。2人が「革命には享楽が必要」と喝破したから。彼らが依拠するフロイトは「法の正しさ」は「法破りの享楽」を生むとします。ならば「正しさ」だけで革命できると考えるのは単に頓馬だ。中高時代の僕は、頓馬が旧左翼で、享楽を同時に追求するのが新左翼だと感じました。

 正しい事を伝えて間違った事を論破すれば人を動かせると考える輩。昨今の僕はクソ左翼とか糞リベと呼ぶけど、中高時代に憎き敵だと感じた当時の共産党や民青を思い出させます。正しさでマウンティングしても人は動かないというのが新左翼の「意気に感じる路線」。戦前右翼に繋がります。とにかく享楽のセンスを磨かなきゃダメだ。

 僕が院生時代にマーケッターをしたのも一つはそのためです。それから30年経った今も、正しさマウンティングの糞リベには「享楽がなきゃ人は動かない」と言い、享楽だけで繋がるウヨ豚には「正しさを無視すると持続できない」と言っています。但し、正確に言えば、糞リベも実は正しさマウンティングの享楽を独占してるだけなんだね。

 だから「正義から享楽へ」というのは、ウヨ豚や糞リベが跋扈する“現実”のことです。対照的に、僕が目差す“理想”と「正義と享楽の一致」です。じゃあ、「正義と享楽の一致」にどう転換するべきか。因みにこうした問題意識を奥田君に伝えてきた経緯もあります。その彼は殺人予告なんか恐れていません。それがヒントになるでしょう。

 「正義と享楽の一致」に向かおうとする人が、病み系やメンヘラにならないようにするには、どうしたらいいか。簡単です。「意識高い系」をやめればいいだけだよ。要は「いいね!」ボタンの収集をやめることだ。そこには「意識高い系」は実は「意識が低い」という逆説があるんですね。詳しく説明しましょう。

 損得の<自発性>と内から湧く<内発性>を区別したアリストテレスを受け、ウェーバーは合理性(自発性)と非合理性(内発性)を区別。[合理化=没主体化=入替可能化]vs.[非合理化=主体化=入替不能化]とする。主体性とは非合理を意志できる力。「いいね!」ボタン収集は損得の合理性ゲームで、「意識高い系」=「非合理を意志できないヘタレ」です。

 これを踏まえて、真の享楽とは何かを考えます。「いいね!」ボタン収集競争の勝利は、言語的な自動機械に配当された入替可能な「快楽」で、その外にある端的な享楽を“意識”して目差せというのがラカン=ジュパンチッチの答え。“意識”しないと言語に操縦された自動機械に堕す。因みに、意識とは再帰的反応(反応への反応)の高次化だ。

 40年以上前にJ・ジェインズが定式化します。ヒトが書記言語を創案して大規模定住社会を営み始める三千年前よりも昔、ヒトは意識を持たなかった。初期の神話や叙事詩の分析から得られた仮説です。怒れば、怒りの振舞いの直接性が、悲しめば、悲しみの振舞いの直接性が、あるだけで、そこには反応の再帰性つまり“意識”は、ない。

 この仮説を取り込んだのが伊藤計劃の『ハーモニー』(2009)というSFでした。クレームで消沈するとか、罵倒で動転するとか、全て自動機械の直接性です。僕はウヨ豚や糞リベの言うことを一切気にしない。今もラジオ番組に殺到するクレームを無視して「米国のケツの穴に糞が付いていてもケツ舐めを続けるのか」と言い続けています。

 意識化(再帰的反応の高次化)が直接性を塞いで享楽を遠ざけるとの危惧があるけど、実はそうじゃないことを80年代前半のアウェアネス・トレーニングで学びました。性愛を想像すれば分かります。相手の反応を自分の反応へと複写するように“意識”し、自分の反応を相手の反応へと複写するよう“意識”することで、享楽を相互触媒できます。

ーー後半へ続く(編集部)