「ちょー遊んでたのにさ、あっさり結婚していったね」

結婚式場のトイレでこう囁かれる女たちがいる。口紅を塗りながら交わされるこの発言に悪意などは微塵もない。むしろあるのは、羨望である。

わたしは今年27歳になる。周りはどんどん結婚を決めていくし「まさかあなたが」と言いたくなるような人が「今の彼氏と付き合ってすっかり落ち着いちゃった」とか「結婚とか絶対無理〜って思ってたけど、考え方変わって〜」とか言ったりする。

友達としては、とにかく唖然。そして次に祝福である。「さすがだな」となぜか誇らしくも思う(心が折れていると「やっぱああいう女がうまくやるんだな」と思う時もあると思うけど、わたしは概ね好意的)。

振り回されて傷ついて、そしてどこか未練のある男たちは、彼女の結婚を知ると「あんな男にスッと落ち着いたのかよ」とか「あんな女、まともな結婚生活できるわけない」とか、きっと心で罵る。

でも「あのクソ女」と言われていることは、まったく彼女には届かない。

彼女は本当に人が変わってしまう。「旦那がさぁ、全然家事手伝わなくて」とか普通の愚痴を言うし、「子供が一番かわいい」とか至って普通の事を言う。

心を決めた女は、揺らがない。「あっさり結婚する女」は、自分にとって何が大事かわかっているのだとわたしは思う。



今回紹介するのは『(500)日のサマー』。恋愛映画好きたちにとってはあまりにも有名な映画なので、観たことがある人は多いかもしれない。ネットで検索すればコメントや批評記事がわんさか出てくる。「男の心をえぐる映画」「失恋経験者には辛い映画」、などとおおよそこんな感じ。

たしかに「恋愛って酷」とか「失恋ってこんな感じ」とか「独りよがり感が懐かしくて心が痛い」とか思うけれど、この記事で同じようなことを書いてもしょうがないし、なによりこのコラムは「恋する女子のためのもの」なので、偏った意見にはなるがわたしは「サマーって最高じゃない?」ということだけを主張したい。

あらかじめ言っておくと、わたしはわがままな女の人が出てくる作品が大好きだ。トルーマン・カポーティが書いた『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリー。『バットマン・リターンズ』に出てくるキャットウーマン。『シカゴ』のロキシー・ハート。そしてもちろん、この作品のサマー。

人を振り回そうとしているのではなく、我がままという感じ。欲求に忠実で

、自分の意思をきちんと主張できる。伸び伸びとしていて意識的に生きている。

サマーなんかはその象徴みたいな人間だし、そのうえ卑怯じゃなくまっすぐでとても現実的(先ほど挙げた作品のどの女性よりも現実的)。

わたしたち現代女性が見習うべきはこういう女の子じゃないか、と思う。


Amazonより

出演: ジョセフ・ゴードン=レヴィット, ズーイー・デシャネル, 監督: マーク・ウェブ  販売元: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 

この映画を観たことがない人に向けてざっくりあらすじを話す(ネタバレするので、観る予定の人はご了承を)。

運命を信じる男トムと、運命を信じない女サマーが出会う。トムはサマーを好きになるが、両親の離婚経験から不確かなものを信じられなくなったサマーは「恋人関係なんてイヤ、誰かのものになるなんてイヤ」とバッサリ発言。「それでも構わない」と答えた事で二人の関係はスタートする。

いつかは自分の事を本当に好きになって「恋人」になって「運命の人」として未来を歩むことがあるかもしれないというトムの淡い期待をよそに物語は進み、ある日サマーとトムは別れる。しばらく経ってサマーに会うと、なんと彼女は婚約をしたという。彼女は言う。「トム、わたしが間違っていたわ。運命ってあったのね」。

……何度見ても、ベンチでトムに向かって「やっぱり運命はあったわ」と語る余裕たっぷりなサマーが、「ある日、目覚めて感じたの。あなたには感じなかった気持ちを」というシーンは心臓が粉々になりそうになるし、トム大丈夫か……と苦い顔をして背中をさすってあげたい気持ちに駆られる。

でもきっとサマーも傷ついたのだ、とわたしは思う。サマーの誠実な姿勢を、勝手に勘違いして勝手に傷ついたトムに、サマーも心を痛めたはずなのだ(シド&ナンシーの話をしたあたりでもわかる)。
「サマーは“ビッチ”だ」という見解を良く見るけれど、サマーはビッチじゃない(トムが振られた腹いせにそう思うのは仕方がない)。

過去の恋愛遍歴を語るシーンでも別にやんちゃすぎるエピソード(ワンナイトを繰り返したりやたらめったら付き合ったり)はない。トムにもあらかじめ「恋人は要らないの」「シリアスなのはイヤなの」ときちんと伝えているから、むしろかなり誠実だ。

それをトムが承知してしまった以上、もうトムはこの恋愛においては最初から敗者。勝つことのできない戦で一人争っていたことになる。

そのことは見て見ぬふりをしながら「あいつはひどい女だ、ロボットだ」というなんて、「ジーザストム、傷つけたのはあなたの方じゃない?」、とわたしも言いたくなる(アリソンが、DVDの未公開シーンでいうこのセリフ、実はめちゃめちゃ大事なのにきっと誘導的になるから削ってあるのだろう……。

そう、トムは自分が作った理想のシナリオ通りに進まないことに一人傷つき、理想を押し付けてサマーを傷つけた。振られる側だけが傷つくわけじゃない。トムはそのことに、気づいてないみたいだけどね!)。

彼女は“ビッチ”どころか誠実で、ちょっと傷つくことに臆病で、愛を信じたくても信じられない、ただの女の子だ。そこらへんにたくさんいる。自分の居場所を探している。愛を不審がりながら、愛を求めている。

作中で、映画『卒業』を観るシーンに決定的なふたりの違いがある。『卒業』を「愛って素晴らしい」と捉えるお花畑脳か、「現実ってつらい」ととる現実主義者か。トムにとってはあの映画は「“ただの映画じゃないか“」だが、愛を信じたくても信じられないサマーにはあの映画はとても鋭い「現実」なのだ。

ちょっとサマーってば現実を怖がりすぎ。ビビりすぎ。傷つきたくないからって刹那的すぎ。とそう思いながら見ていたのに、そんな彼女が、ちゃんと愛を信じて結婚をしたなんて! もう拍手喝采。

結婚なんていう不安定なものに飛び乗ろうと決意したサマーの姿勢をわたしは見習わずに居られない。未来を信じられるようになったなんてあなたすごい成長じゃない! と(自分が何の立場からそんな物事を言っているのかはいささか不明であるが)こんな風に手を叩いて立ち上がりたいのだ。 

トムが辛かったのは十分わかるけれど、サマーもトムを好きじゃなかったわけじゃない。その時は本当に「好き」だったのだろうし(喧嘩の仲直りシーンなどでもそれは伝わる)、一緒にいて楽しかったはずだ。ただただ将来をともにする相手として選ばれなかっただけ。恋愛にはよくある。好きな人が自分を好きになってくれることを勝手に期待して勝手に傷つくことが。

トムには一言、「恋って期待した通りには進まないけど、それは相手や君が悪いんじゃない」とだけ言いたい(再度言うが、トム側を擁護する記事は世の中にわんさかあるから、トム派はそちらを読んでほしい)。

実際、ラストのシーンで映画はこう語る。

「すべては偶然である。運命ではない」と。

トムがそうであったように期待したような驚くべき展開はそう起こらないし、わたしたちが願うような展開も現実にはなかなか起こらない。あるのはただ偶然のみで、その偶然の中でなにかを掴み取れるのが勝者なのかもしれない。

トムもきっとその原理に気づき、運命を笑い、そして最後に「でもやっぱり運命ってあるんだ」と気づくことになるだろう。

運命を信じられるようになるには、運命を一度疑わなくてはいけない。運命は作り出すものでも見つけるものでもなく、在ることに気づけるかどうかだから。

そしてトムはオータムとの1日目を始める。きっとトムはもう同じような間違いはしないだろう。

さて、サマーからわたしたち女子が何を学べばいいか、と問われたら「欲求に忠実で、誠実な姿勢」だと思う。

わたしは女なので男の気持ちはわからないが、あっさり結婚していく女に何が起こったのかくらいはそれなりに理解できる。

彼女たちを変えるのは、たぶん積み重ねてきた“欲求に忠実な時間”だと思う。素敵な相手と出会ったことももちろんなのだけれど、それよりも彼女たちが自分の欲求に忠実に生きてきた時間が、彼女たちの「自分にとって必要なものを嗅ぎ取る能力」を鋭くしていく。

きっと25~28歳くらいで遊んでいた子たちがさくさく結婚していく様子からして、25年くらい好きに生きれば「自分は何がほしいのか」をちゃんと知れるようになるんじゃないかと思っている。

そうして鍛え上げた「必要なものを嗅ぎ取る能力」によって「ほしいもの」を目の前にしたときにきちんと選び取ることができる。

「これだ」と思った時に、何もかもを捨ててでも掴みにいける能力は、とても現実に即していて「戦略的」だ。清々しいくらいに態度を一転させてでも、自分の大事なものを忠実に嗅ぎ取った彼女たちとサマーを見習って生きなければと思う。

わたしはまるでサマーの女友達かのように彼女を誇らしく見つめる。サマー、きみってさすがだな。

●さえり●
 90年生まれ。書籍・Webでの編集経験を経て、現在フリーライターとして活動中。 人の心の動きを描きだすことと、何気ない日常にストーリーを生み出すことが得意。 好きなものは、雨とやわらかい言葉とあたたかな紅茶。 Twitter:@N908Sa (さえりさん) と @saeligood(さえりぐ)