結婚は、女の幸せ。

しかし結婚しただけでは満たされない。女たちの欲望は、もっと根深いものだ。

ポーセラーツサロン界でトップの座を欲しいままにしていたカリスマサロネーゼ・マリ。女たちからの羨望に酔いしれ、トップの座に固執していた彼女だが、CA時代の後輩で白金妻となった香織との再会で目が覚める。

下層階でおうちサロンを営む由美にトップの座を譲り、目に見えぬ妻たちの階級争いから身を引いたはずであった。

しかし、一度味わってしまった羨望の味。その快感の中毒性は、まさに麻薬。

マリはやはり、その味を忘れられなかったようである…。




永く続かぬ、平穏な日々


二子玉川のシンボルともいえる、高級タワーマンションの最上階。

そう、ここは永らくポーセラーツサロン界でトップの座に君臨してきた、カリスマサロネーゼ・マリの自宅である。

表面には品の良い微笑みを浮かべ、気高く振る舞う二子玉川の妻たちが水面下で繰り広げるヒエラルキー闘争。その永遠に続く醜い争いから身を引いたマリは、未だかつてない心穏やかな日々を過ごしていた。

風の噂で、同じマンションの階下、33階に、お嬢妻・薫が新たにティーサロン兼ポーセラーツサロンを構えたと耳にした。(マリのポーセラーツサロンLuxeに通っていた、噂大好きマダム筋からの情報である。)

薫は、せっかくマリの引退でトップの座を勝ち取った由美からその椅子を奪おうと画策しているのだとか。

マリは一度、エントランスで薫らしき人物とすれ違った。

彼女は、一点の翳りも見当たらぬ真っ白なワンピースに身を包み、お嬢様然とした穏やかな微笑みをたたえていたが、すれ違う際のほんの一瞬…上から下までマリを品定めする視線を向けたのを、マリは見逃さなかった。

―由美も、厄介なライバルを持ったものね。

そんな風に思っても、所詮は他人ごと。42階の最上階から、高みの見物である。

しかしやはり、女というのはどうにも業の深い生き物である。心穏やかに過ごす日々に、マリはかつてない幸せを感じていた、はずだったのだが…。

幸せに慣れてしまうとなぜだろう。心が無意識に、刺激を求めてしまうようなのだ。


格付け争いから身を引いたはずのマリに、再び火をつけた出来事とは?!


三つ子の魂、百まで


妻となった女たちは、自身の結婚生活が、どのくらい幸せであるかを競い合う。

住んでいる場所、家の広さ、インテリア、手の込んだ料理、夫からの愛という名のブランド品自慢…。そういうありとあらゆるアイテムの優劣で、格付けし合うのだ。

そしてやがて母となった女たちは、次のステージへと駒を進める。今度は、母親としての自身の価値を競い始めるのである。

その優劣は、例えばどこのメーカーのベビーベッドやベビーカーを選ぶかから始まり、ママバッグはゴヤールなのかエルメスなのか(バーキンをママバッグにする強者も港区を中心に存在する)、足元を飾るフラットシューズはフェラガモなのかシャネルなのか、等。

もちろん、ファッションアイテムに限った話ではない。

月齢ごとに撮影する子どもの写真のクオリティや、バースディパーティーのゴージャスさ、どこの幼児教室に通わせるか…格付けのネタは、尽きることはない。




ポーセラーツサロンLuxeをクローズした後、こうした女たちの格付け争いから遠ざかっていたマリは、心乱されぬ穏やかな日々を過ごしていた…はずだった。

しかしマリは、羨望という名の麻薬を、甘く見ていたようだ。

一度味わってしまった、羨望の味。忘れていたはずのその快感を、マリはとあるきっかけで、再び思い出してしまう。

結婚6年目でようやく授かった、待望の第一子が幼稚園に通うようになり、毎朝持たせることになった、お弁当が引き金だった。

永らくポーセラーツ界のトップの君臨したカリスマサロネーゼ・マリは、カリスマ性もさることながら、美的センスや手先の器用さにも恵まれている。

最初は純粋な気持ちで、娘を喜ばせたい一心で、ディズニーキャラクター「シェリーメイ」のデコレーション弁当を作ってみたところ、自分で自分の才能に惚れるほどに会心の出来栄えだったのだ。

娘が喜んでくれればそれで良い。

そう思っているのは事実だが、こんなに素晴らしい出来栄えなのに日の目を見ないのは勿体ない。そう思って写真に撮り、インスタグラムに投稿したのだった。

すると…。

スマホに鳴り止まぬ「いいね!」通知。あっという間に500いいね!を超え、続々届く賞賛コメントの数々…。

“どうやったら海苔をそんなに器用にカットできるんですか?”
“隣のバラは、何でできているんですか?”
“尊敬です!なんて素敵なママなんでしょう❤”

マリは、心の奥でむくむくと、何かが蠢くのを感じた。

それからというものマリは、毎朝5時起きでデコレーション弁当づくりに没頭した。もともと凝り性で負けず嫌いな性格なのも相まって、そのこだわりっぷりはもはや、アートの域。

ハムをバラのように見立てるのは十八番技で、卵の白身に色粉を混ぜてドレスを作ってみたり、バレンタインの日には薄焼き卵にココアを混ぜ、ハートのチョコレートにパスタでLOVEの文字を飾った。

中には「これは食べ物なのだろうか」と疑問を抱かせるものも少なくなかったが、デコレーション弁当専用に作ったインスタグラムアカウントは、瞬く間にフォロワー10Kを突破。

―そろそろ、オファーが来るんじゃないかしら。

そう思っていた矢先、マリの目論見通り、デコレーション弁当のレシピ本出版依頼メールが届くのだった。


やはりマリは、変わっていなかった―。そんなマリを、静かに見つめる妻の姿が…




静かに見つめる、妻の思惑


マリのデコレーション弁当のレシピ本『真似したい!愛情たっぷりデコレーション弁当』の出版記念パーティは、青山の某イベントホールで盛大に開催された。

会場に足を踏み入れた由美は、その規模の大きさに唖然とする。イベント後にはサイン入り本の即売会も予定されているようで、マリのファンらしきママ層の女性たちの姿も多く見受けられる。

メディアの取材も多数入っており、その華やかさは、以前『代官山ASO チェレステ』を貸し切って開催された、マリのポーセラーツサロンLuxeの移転パーティーの比ではない。

「それでは、デコレーション弁当アーティスト、マリさんにご登壇いただきましょう!」

司会の声が響き、スポットライトを浴びて舞台に登場したマリを舞台下から見上げ、由美は思わず笑ってしまった。

―やっぱり、マリ先生は、こうでないと。

そこには、由美が憧れ、それゆえに嫉妬したマリの姿があった。女たちからの羨望を浴び、皆の中心で圧倒的な存在感を放つマリ。

その姿はまさに水を得た魚。羨望という光を反射し、生き生きと会場を見渡すマリ。その姿を見て、由美は呆れるのを通り越して天晴、という気持ちになるのだった。

アンダーズ東京のラウンジ『アンダーズ タヴァン』で、「サロンを閉める」と由美に告げたマリは憑き物が落ちたように穏やかで美しかったが、そんな彼女に失望を覚えたのも事実だ。

「マリ先生には、ずっと私の目標でいてもらわないと、困るわ。」

舞台上のマリを見つめ、由美は小さく呟く。

―そっと、お腹を撫でながら。

Fin.