小麦輸出大国・アメリカ。日本もそのほとんどをアメリカからの輸入に頼っていますが、そこにはある日本人の尽力があったことをご存知でしょうか。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、1960年代に予測されていた食料危機から人類を救った「グリーン・レボリューション(緑の革命)」に大きく貢献した一人、稲塚権次郎(いなづか・ごんじろう)が「小麦の品種改良」に成功するまでの歩みを辿ります。

稲塚権次郎とボーローグ博士〜世界を変えた「農林10号」

平成2(1990)年6月1日、富山県南西部の農村部・南砺(なんと)市にある南砺農業会館で一人の白髪長身の年老いた白人が、500人ほどの聴衆に語りかけていた。

アメリカの農学者ノーマン・E・ボーローグ博士である。博士は収穫量が従来の2〜3倍もある新しい小麦の品種を世界に広め、それによって1960年代に予測されていた食糧危機から人類を救った「緑の革命」の功労者として、1970年にノーベル平和賞を受賞した人物である。

博士は微笑をたたえながら、いかにも学者らしいゆったりとした口ぶりで話し始めた。

今日この地で、私達は稲塚権次郎博士の生家を訪れるという素晴らしい経験をさせて頂きました。先生の業績は、一人私のみならず全世界の人々が、高く評価し心から感謝しているものであります。多くの国々で食糧問題の解決を可能にしてくださったのも、稲塚博士の御貢献あればこそなのです。

(『世界の食糧危機を救った男―稲塚権次郎の生涯』千田篤・著/家の光協会)

ボーローグ博士の立つ演壇には、青々とした小麦の鉢が飾ってあった。これこそ稲塚権次郎が昭和10(1935)年に世に送り出した「小麦農林10号」であり、ボーローグ博士はこれを改良して世界に広めたのであった。

メンデルの遺伝学による食料増産

この南砺の地で、稲塚権次郎は明治30(1897)年に生まれた。高等小学校を卒業した後、富山県立農学校に入学。農学校までは往復4時間の距離を歩いて通ったが、リュックを背負い、本を開いて勉強しながら通う姿は、まさに二宮尊徳の子供時代そのままの姿だった。稲塚は江戸時代に農村開発に力を尽くした二宮尊徳の教え、報徳教の本を愛読していた。

大正3(1914)年3月、17歳の権次郎は農学校を首席で卒業し、先生の勧めで東京帝国大学農科大学に進んだ。家は貧しかったが、先生や本家の当主に泣いて頼んで、両親を説得して貰った。

権次郎はここでメンデルの遺伝学を学んだ。メンデルの法則はオランダ人ド・フリースによって1900年に再発見されたが、その6年後には東京帝国大学の戸山亀太郎博士が蚕を使って、メンデルの法則が動物にも当てはまることを明らかにした。さらに1914年に世界で初めて、蚕のハイブリッド品種を作り出した。メンデルの法則を応用した品種改良では、当時の日本は世界の最先端を走っていた。

権次郎は、この戸山亀太郎博士からメンデルの実験遺伝学を学び、さらに育種学や品種改良の技術を習得していった。

大正7(1918)年に卒業した権次郎は、農商務省の農事試験場に就職した。この年はコメ騒動が全国に広がって寺内内閣が倒れ、かわって誕生した原敬内閣は土地と品種の改良によって米の増産を図ろうとした。権次郎が就職した農事試験場は、全国数カ所の支場、各府県の農事試験場を統括して、品種改良の使命を担っていた。

農家が一斉歓迎した「陸羽132号」

大正8(1919)年、22歳の権次郎は、秋田の陸羽子場に赴任した。東北は稲作の北限にあり、単位面積当たりの収量は畿内の6割程度に過ぎず、冷夏となれば凶作に見舞われていた。秋田の陸羽子場はまさに米増産のフロンティアであった。

権次郎は、ここで前任者が交配を進めていた「陸羽132号」というハイブリッド品種を数年かけて完成させた。冷害や稲熱病に強く、収量も多かった。当時の地元紙は次のように伝えている。

「陸羽132号」の植付が急速に発展したには何人も驚かざるを得ない。

 

聞く所によると同種は一昨年陸羽子場の発見に関わり、中稲の「亀の尾」と晩種の「愛国」とを配合し、稲は強健に収量も多くそれに栽培容易にして秋田の風土に堪ゆる点に於いて無比なりと称せられているから、農家の一斉歓迎したのも決して無理はない。

(同上)

大正15(1926)年頃、盛岡高等農林学校の卒業生である宮沢賢治は、岩手の地でまさに「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」と、農家指導に奔走していた。賢治は陸羽132号を極力勧め、多くの農家で2割方の増収を得て、喜ばれていた。ある詩では次のように陸羽132号を詠っている。

陸羽132号のはうね あれはずゐぶん上手にいった 肥えも少しもむらがないし いかにも強く育っている

昭和6(1931)年からは東北地方は毎年のように深刻な冷害におそわれたが、「陸羽132号」が開発されていなかったら、凶作の被害は10倍近くにもなったろうと言われた。

戦後の食糧危機を救った「農林1号」

権次郎は「陸羽132号」をさらに改良する作業を進めた。大正15(1926)年に新品種の第四世代まで育てたところで、岩手県農事試験場に転勤となったが、その後、新潟県農事試験場の並河成資・主任技師らがこれを引き継いで「水稲農林1号」として完成させた。

「陸羽132号」の成功がきっかけとなって、国立と各府県の農事試験場が全国的に連携し、そこから生まれた優秀な品種には統一的な「農林番号」をつけて各府県で奨励するという制度が生まれた。水稲としての第一号が「水稲農林1号」であった。

この「水稲農林1号」は、収量が多いだけでなく、収穫時期が早いために裏作も可能で、生産性を高めた。戦争直後の食料危機の際には、北陸、東北、関東地方で栽培された「水稲農林1号」が早場米として都市部にどしどし送り込まれて、窮乏に喘ぐ国民を救った。

この「水稲農林1号」は味も良く、それまで「まずい」と言われていた越後米の汚名を一挙に返上した。そしておいしい越後米の元祖として、今日のコシヒカリやササニシキなどの子孫を生み出している。

「まるで当時の日本の農民のような小麦」

一方、岩手に移った権次郎は小麦の品種改良に取り組んでいた。当時の人口急増によって、小麦の消費量も急激に増加しつつあった。しかし国内の自給率は50%程度であり、食糧不足および、小麦輸入による貿易収支悪化の危機が迫っていた。権次郎は、小麦の品種改良によって国内生産の大幅増加を実現し、この危機を乗り越えようとしたのである。

権次郎は助手一人とともに、日曜日もほとんど休むことなく、農事試験場で小麦の育成・観察・選別に取り組み、妻と子の三人で麦畑で昼食の弁当を食べることも度々だった。

こうした努力の末に昭和4(1929)年に完成したのが、「小麦農林1号」であった。権次郎はこれに満足することなく次々と新品種開発を続け、昭和10(1935)年には「農林10号」を完成させた。従来の小麦は人の肩ほども高さがあったが、「農林10号」はわずか50センチほどで、大きな穂をたくさんつけても倒れることがなかった。

権次郎は、後に「農林10号」について、こう語っている。

そう、まるで当時の日本の農民のような小麦だったな。

 

背が低くて、頑丈で、骨太っていうのかな。とにかく、いくら穂をつけても倒れないんだ、もともと雪の多い東北地方むけに品種改良したものでね。半年ちかく雪の下で育っても腐らない強い小麦をめざしたんだ。

(同上)

この間、昭和7年に政府が立てた「第二次小麦増殖5カ年計画」は着実に成果を上げ、当初の小麦輸入量400万石は、昭和11年には16万石に激減して、ほぼ国内産で自給できるようになった。農林1号から10号までの改良品種が、この増産に貢献した。

華北農民のために

昭和13(1938)年、権次郎は北京の華北産業科学研究所に転任した。この研究所は外務省が義和団事件の賠償金の還元策として、広く華北の産業発展を目指したもので、とりあえず農業部を設置して、食糧増産および農民の福利増進のための試験研究を行った。日本人職員も東大、北大、九大などから人材を集め、326人にのぼっていた。

華北は洪水、日照り、イナゴの害など荒々しい自然環境の中で、農民が原始的な農業を営んでいた。権次郎はここでも小麦の品種改良に取り組み、在来種を収集し、そのうちの優良なものを純系にして9つの奨励品種を作り、それを増殖して、華北農民に配布していった。

やがて終戦となり、研究施設はすべて中国側に引き渡されることになった。金陵大学で小麦の育種をしていた沈宗瀚博士が接収に来た際に、こう言ったと伝えられている。

非常にいいものを作ってもらった。私も方々歩いたけれども、こんな立派な試験場は見たことがない。ほんとうにいいものをつくってもらった。あなた方が許すことなら長くここに残って、この仕事を継続してやってもらいたい。

(同上)

この言葉通り、権次郎は徴用されて、終戦後も2年間、研究所に残り、指導を続けた。帰国したのは昭和22年だった。

「小麦農林10号」アメリカに渡る

昭和20(1945)年12月、権次郎がまだ中国にいた頃、アメリカ人農学者S・C・サーモンが来日した。サーモン博士は占領軍の農業顧問として日本の農業事情の調査を行い、その過程で「小麦農林10号」の存在を知った。そして自ら岩手県立農事試験場に出向き、収穫前の「農林10号」を見た。

アメリカの小麦は通常15〜20センチ間隔で植えられているのに、「小麦農林10号」は50センチも離して植えてあった。それでもたわわな実をつけているので、地面が見えないほどだった。さらに背丈がわずか60センチしかなく、倒れる事もなかった。

博士は「農林10号」の種子をアメリカに持ち帰り、1年間栽培して、全米各州に配布した。それを受け取った一人がワシントン州の農業試験場に勤めるO・A・フォーゲル博士だった。フォーゲル博士は「農林10号」をアメリカの品種と交配して、新品種「ゲインズ」を作り出した。「ゲインズ」が農家に配布されると、各地で驚異的な出来高をあげた。

フォーゲル博士から種子を受け取った一人に、メキシコで小麦の品種改良に取り組んでいたボーローグ博士がいた。メキシコでは数年周期で小麦のサビ病が発生し、甚大な被害を受けていた。ボーローグ博士はサビ病に強く、収量も多い品種を開発していた。

しかし収量があがるにつれて、小麦が倒れるようになり、生産高の伸びに限界が生じてきた。ボーローグ博士は、母国アメリカでフォーゲル博士が背の低い品種を生み出している事を知り、少量の種子を送って貰った。それらをメキシコの品種と交配した新しい品種を作り出したところ、収量が2倍、3倍に伸びて、メキシコの農家は熱狂的に喜んでくれた。

「緑の革命」

ボーローグ博士は国連農業機関の使節として、発展途上国の農業を視察し、農業研究者が不足していることを知った。そこで各国から研究者をメキシコに呼び寄せ、訓練をした後に、「農林10号」から改良した種子を持ち帰らせる制度を始めた。

1965(昭和40)年から翌年にかけてインドとパキスタンが小麦の大凶作に見舞われた。そこでボーローグ博士は両国に数万トン単位の種子を送り込んだ。これらが両国の土地で実を結び、インドでは小麦の収量が2倍となり、パキスタンでも自給自足が可能なレベルに達した。

冒頭に紹介した平成2年の富山県での講演の中で、ボーローグ博士は「農林10号」の遺伝子を受け継いだ品種は500以上生み出され、世界の小麦の3割を占めるに至ったと述べている。

1960年代は、貧しい国の食料増加率が人口増加率の半分にも満たなかったことから、未曾有の食糧危機が予測されていた。しかし「農林10号」の子孫たちが、2倍、3倍の小麦を生み出して、食糧危機を回避したのである。これは「グリーン・レボリューション(緑の革命)」と呼ばれ、その功労者としてボーローグ博士は1970(昭和45)年にノーベル平和賞を受賞した。

一つの「ゆめ」が世界を変えていった

昭和56(1981)年、日本育種学会の大会にボーローグ博士と権次郎が招かれて、それぞれ講演を行った。ボーローグ博士は67歳、権次郎は84歳であった。権次郎はボーローグ博士に地元の銘菓「水芭蕉」と、次の昭和天皇御製を送った。

水きよき池のほとりにわがゆめのかないたるかもみずばせう(水芭蕉)さく

権次郎の生まれ故郷に近い縄ヶ池に自生する水芭蕉の大群生を、昭和天皇が詠まれたお歌である。品種改良によって人々を救いたいという権次郎の「ゆめ」も、多くの人々の努力を通じて実現したのである。

この対面から7年後の昭和63(1988)年、91歳の権次郎は亡くなる直前に残した回顧録の中で、次のように述べている。

農林10号は、さまざまな出会いを重ねながら世界の小麦を変えていった。

 

種子と種子と、そして種子と人との出会いのなかで――それは一粒の種子がもつ限りない可能性を実証しつつ世界をかけめぐり、世界を変えていったのです。農林10号の物語には、壮大なロマンを感ぜずにはおられないのです。

(同上)

この「種子」を「ゆめ」という言葉に替えても良いだろう。一つの「ゆめ」が多くの人々との出会いを通じて、世界をかけめぐり、世界を変えていったのである。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock.com

 

 

『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』

著者/伊勢雅臣(記事一覧/メルマガ)

購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

出典元:まぐまぐニュース!