観客席にサインボールを打ち込むとき、軽くフェイントをかけてファンを沸かせては、茶目っ気にあふれた笑みをこぼす。最上段に飛んでいったボールを観客が見事にキャッチしたのを見届けると、ラケットを叩いて称賛の拍手を送る──。


節目となる10年目のマイアミ大会で好スタートを切った錦織圭 ビッグサーバーの難敵ケビン・アンダーソン(南アフリカ)に6-4、6-3で快勝した後ということを考えれば、錦織の笑顔も、当然と言えば当然かもしれない。それにしてもやはりマイアミでの彼は、先週までのインディアンウェルズ・マスターズよりもはるかに表情が、そしてコート上の姿が楽しそうに映る。試合前日の練習でも、詰めかけたファンへのサインや”自撮り”にも、こころよく応じる姿が印象的だった。

「準備もしっかりできていたので、今日はいい出だしでした」

 試合後の言葉にも、静かな自信がにじんでいた。

 3月のマイアミの風物詩とも言えるこのマスターズ大会は、錦織にとって特別な意味を持つ大会だ。14歳から拠点とするIMGアカデミーとは、クルマで4〜5時間の距離。17歳のときに全仏オープン優勝者であるグスタボ・クエルテン(ブラジル)と組み、ダブルスで同大会に出場したのが、彼にとっての”ATPツアーデビュー戦”でもあった。

 同年の開幕直前には、憧れのロジャー・フェデラー(スイス)の練習相手を大会会場で数日間務めたこともある。翌2008年にはシングルスでのデビューも果たし、以降、ひじの故障でシーズンの大半を欠場した2009年をのぞけば毎年出場している。

 その間、2012年にはラファエル・ナダル(スペイン)相手に、自分の攻めのテニスを貫く納得の敗戦を喫した。2014年には準々決勝でフェデラーを破り大観衆の喝采を浴びるも、準決勝のノバク・ジョコビッチ(セルビア)戦を股関節故障のため棄権する、無念の記憶もここに刻んだ。それら重ねた経験と思い出は、今大会で区切りの10年に達する。日ごろは数字や過去には無頓着な錦織が、このときばかりは”ひと昔”の年月に想いを馳せ、感慨深げに言った。

「10年の間にたくさんあったし、10年というのは長い響き。でも、新鮮な1〜2年目の思い出はよく残っているし……すごく速いなという印象はあります」

 その錦織にとっての「10年目のマイアミ・マスターズ」初戦(1回戦はシード免除の2回戦)は、雨まじりの強風がコートを巻くように吹きすさび、決してプレーしやすいとは言いがたい条件のなか行なわれた。そのような環境が線審たちのジャッジを困難にするのか、試合序盤から錦織がビデオ判定(チャレンジシステム)を行使しては、そのたびに判定は覆る。

 時速135マイルの高速サーブを放つ相手との対戦では、ブレークを奪う機はそうそう何度も訪れるわけではない。数少ないチャンスを掴むには集中力が求められるが、その集中力を妨げる要因は、何かと多いように思われた。

 それでも試合序盤から錦織は、相手のセカンドサーブをベースラインから下がらずに打ち返し、相手にプレッシャーをかけ続ける。第5ゲームではデュースから相手の跳ねるセカンドサーブを、飛び上がりバックハンドで肩口から叩き込むリターン2連発。3度目のチャンスにて待望のブレークを奪い取った。

 このゲームで掌握した主導権を、彼は最後まで手放すことはなかった。第2セットも第3ゲームの3連続ウイナーで、観客の声援と流れを呼び込むブレーク奪取に成功。なかでも白眉は、強風切り裂くストレートへの強打で、ウイナーとともにゲームを奪い取った場面だ。相手サーブのコースを読み切ったかのようにリターンを放ち、甘い返球を快音響かせ弾き返した瞬間、彼はこの日一番の鋭い叫びをスタジアムに響かせた。

「風が強いと、なかなか思い切ったプレーが難しいので、ボールを入れにいかなくてはいけない場面も多かったは多かったですが……」

 試合後の錦織は、まずは難しい気象条件であったことに言及しながらも、こう続ける。

「フォアを使って攻撃的なプレーができた。リターンでしっかりボールを入れていけたのが、いいプレーを引き出す要因になったと思います」

 そのリターンで迷いなくプレー選択ができたのは、このマイアミのコートはインディアンウェルズに比べてボールが跳ねないため、長身のアンダーソンが放つスピンサーブも早めに捕らえて返せるとの自信があったから。

「ここはあまり弾まないので、なるべく前に入ったり、後ろでもプレーしたり……いろいろと混ぜながら、どうにかして相手のファーストサーブの確率を下げたり、リターンを入れて試行錯誤していきました」

 奇しくも「試行錯誤」は、先週のインディアンウェルズ準々決勝でジャック・ソック(アメリカ)に敗れた錦織が、「もっと試行錯誤できれば……」と悔いとともに漏らした言葉。それが今回は勝因として、彼の口から語られた。ボールの跳ね方も風すらも、10年の試行錯誤の日々が詰まったこのコートでは、彼の制御可能な範疇にあるのだろう。

 与えたブレークポイントはゼロ。奪ったブレークは、6度のチャンスのうち3度。昨年は決勝の舞台に到ったコートに笑顔を残し、まずは自信の裏づけとなる、価値ある勝利を持ち帰った。