今夜9時よりTBS系でスペシャルドラマ「LEADERS II」が放送される。3年前に放送された「LEADERS リーダーズ」の続編だ。前回より引き続き、佐藤浩市演じるアイチ自動車創業者・愛知佐一郎を主人公に、日本における自動車産業の草創期が描かれる。ただし、今回は自動車開発よりも、主に販売にスポットが当てられるという。その中心的役割を担うのは、内野聖陽演じる「山崎亘(わたる)」という人物だ。


佐藤浩市演じる愛知佐一郎のモデルは、トヨタ自動車創業者の豊田喜一郎(何しろドラマにはトヨタが全面協力している)。これに対し、内野演じる山崎亘にもちゃんとモデルがいる。トヨタのお膝元・愛知県でトヨタ車の販売を担う愛知トヨタの初代社長、山口昇その人である。今回、劇中には山崎亘が支配人として勤める自動車販売店として「日の出モータース」という会社が出てくるが、山口昇はまったく同じ名前の会社でやはり支配人を務めていた。

中等学校野球のエースが夜逃げするまで


山口昇は、愛知県碧海郡新川町(現在の碧南市)の出身。ちなみに碧海郡は、昨年の大河ドラマ「真田丸」で内野聖陽の演じた徳川家康の生地・旧三河国に属する。

山口は地元の高等小学校を1910(明治43)年に卒業すると、上京して慶應義塾の事務員をしながら同義塾の夜間商業に入学、さらに1913(大正2)年の春には慶應商工本科1年に転入学している。年齢的にはいまの高校生に相当する。在学中は、慶應義塾普通部の野球部で活躍した。1916年に大阪・豊中球場で開催された第2回全国中等学校野球大会には主将にしてエースとして出場し、優勝に導いている。翌年には慶應義塾大学予科に入学したものの、実業団の台湾製糖にスカウトされ、軍隊に入るまで1年ほど、当時日本の植民地だった台湾に渡っている。いまからちょうど100年前、1917年のことだ。

充実した青春時代をすごした山口だが、社会に出てからは紆余曲折を経験した。1922年に製糸工場を開業したものの、3年でつぶし、母と妻を連れて郷里を夜逃げ同然で横浜に移る。おりしも第一世界大戦後の軍需バブルの崩壊に、関東大震災が追い打ちをかけ、日本経済が低迷していた大正時代の末期だ。一方で、震災により鉄道が寸断されるなかで自動車の役割が注目され、各地の自動車販売店はにわかに活気づいていた。もっとも、この時期の販売店が取り扱っていたのは、もっぱら欧米からの輸入車だった。

「販売の神様」との出会い


山口が心機一転、自動車販売の世界に入ったのは、慶應野球部時代の先輩からの紹介で、1927(昭和2)年に名古屋の外国車販売店「ユタカ自動車」に転職したときだ。このころにはアメリカの自動車メーカー、ゼネラルモーターズ(GM)が日本に工場を建設して生産を始めており、ユタカ自動車はGMの特約代理店(ディーラー)として、東海地区におけるGMの中高級車の販売を担っていた。もっともユタカは、会計面も販売面も企業としてはあまりにずさんだった。1年後には経営者が交代し、「イサオ自動車」と看板も代わる。これにともない山口は経理主任という責任ある地位についた。責任の一端を担うだけに、経理の仕事だけでなく販売に歩き回るなど仕事も増える。

だが、イサオが扱う中高級車は、フォードのT型や、GMでもシボレーのような大衆車とは違い、おいそれと売れるものではなかった。山口自身はそれなりに販売成績を収めたとはいえ、会社全体の業績は伸びず、前身のユタカと同じくすぐに経営不振に陥る。実質的な会社の責任者だった専務がやめると、一主任である山口が当面の責任者となり、金策などに奔走した。だが、そんなディーラーに対し、メーカー側の日本GMが金融の面倒を見るということはなかった。すぐさま後継社長のもと新会社を新設するため、名古屋財界から適任者を探し始める。このとき、日本GMが代表員(ロードマン)として名古屋に派遣したのが、神谷正太郎という人物である。

神谷はのち豊田喜一郎にトヨタ車の販売を託され、トヨタ自動車販売の初代社長に就任、「販売の神様」とまで呼ばれた人物だ。「LEADERS」でいえば、神保悟志演じる「神田征太郎」のモデルにあたる。今回のドラマでは、内野聖陽演じる山崎亘は、佐藤浩市演じる愛知佐一郎との出会いからアイチ自動車と関係を持つようだが、現実の山口昇とトヨタのつきあいは、この神谷正太郎を介して始まった。

台風を好機ととらえ


神谷は、イサオの次期社長を探す過程で、山口昇の才能を見出す。だが、神谷の打診に、自分が経営の任にあたるには時期尚早であると断った。山口はその代わりとして、本来ならGM側に引き取られてしまうイサオの売掛金や未収金に関する権利を、そのまま新会社に譲り渡してくれるようにと頼みこむ。これを受けて神谷は日本GMに交渉し、異例の措置として、権利は新会社に受け継がれた。神谷と山口の協力関係はここに始まる。

こうしてイサオの後継会社として1929年に誕生したのが、先にあげた「日の出モータース」である。その社名には再出発への期待が込められていた。山口はこのとき支配人となり、経理以外の仕事にまで責任を持たされる。

しかし中高級車のセールスの苦戦は続き、何度となく経営危機に直面する。そこへ来て1934年、室戸台風が襲い、大阪市にあった日本GMの組み立て工場が完全に水に浸かってしまった。このときたまたま大阪に来ていた山口は、組み立てられたばかりの新車が傷ついたり、潮水に浸かったりしていることに目をつける。それら事故車のなかには、整備をほどこせば、十分に新車として売れるものもあった。そう見抜くや、山口はそれら事故車を安く買い取ると、すぐさま名古屋に運んで成功を収めたのである。

豊田喜一郎がトヨタ第1号車を発表したのはその翌年、1935年のことだ。このとき東京での展示会のあと、トヨタ販売店第1号となった日の出モータースが名古屋で発表会を行なっている。

日の出モータースがトヨタ販売店第1号となったのもまた、日本GMからトヨタに引き抜かれた神谷正太郎の依頼を受けてのことだった。神谷は、このころ1年でつぶれるのが常識だった中高級車ディーラーの看板を、まがりなりにも1929年以来6年にわたり掲げ続けた山口の実績を買ったのだ。

「自分たちの売るのは、怪しげなクルマである」


だが、本当の苦難はここからだった。その原因は、開発途上にあるトヨタ車はまだ技術的に未熟で、故障も多かったことにある。

山口はこのとき社員たちに、「自分たちの売るのは、外車とくらべ、何一つとりえのない、怪しげなクルマである。それをブローカーまがいのセールスマンが売って歩けばどうなるか。客にクルマをかわいがってもらうには、まずセールスマンが好かれなければならない」と意見を述べたという。すべてはそんな次元からの出発出会ったというわけだ。セールスマンにも、なまじ経験のある者よりはと、経理マンから営業部長に抜擢された日比太郎のもと、学校出の新人が集められた。劇中では日の出モータースの若き営業マン「日下部誠」を東出昌大が演じるが、これは日比をはじめとする実在のセールスマンたちをモデルとしているのだろう。

日の出モータースのセールスマンたちは、「国産自動車を育てると思って」などと、ただひたすらに相手の感情に訴えながらクルマを売ってまわったという。なかには、それを意気に感じてクルマを買ってくれる客もいたようだ。

このあたりの話はおそらくドラマでもたっぷりと描かれるだろうから、これ以上くわしくは書かないでおこう。個人的に気になるのは、今回のドラマでデビュー以来初の悪役を演じるという郷ひろみだ。その役どころは、外車ディーラーの営業マン出身の社長で、国産車を軽視しているという設定とか。そんな彼がアイチ自動車に対し、どんないや〜な態度をとるのか、見ものである。

なお、現実の日の出モータースはその後、1937年に「名古屋トヨタ販売」と社名を変更する。戦時中の1942年には、愛知県下のほかの国産車販売店と合併して「愛知県自動車配給(愛知自配)」が設立されるも、終戦後にはメーカー別にふたたび分離。1946年には「愛知トヨタ販売」と社名変更し、トヨタ自動車工業(のちトヨタ自動車販売と合併して現在のトヨタ自動車となる)と正式に代理店契約を結んだ。48年にはさらに「愛知トヨタ自動車」と名前を変え、以後、乗用車の普及にともないトヨタ自動車とともに発展しながら現在にいたっている。

※本記事執筆にあたっては、主に『愛知トヨタ25年史』(愛知トヨタ自動車、1969年)を参照しました。
(近藤正高)