「あぁ、またホンダか……」

 セッションの中断を表わすレッドフラッグが打ち振られ、コース上に力なく止まるオレンジ色のマシンがモニターに映し出されると、バルセロナのメディアセンターには落胆とも嘲笑とも取れる、そんな溜め息が漏れた。


テストでのマクラーレン・ホンダはピットに止まっている時間も長く...... トラブルだらけのパワーユニット。性能も信頼性もなく、マクラーレン・ホンダの開幕前テストを惨憺(さんたん)たるものにした――。メディアセンターのみならず、世界中がそんな目でホンダを見ていた。

 人はとかく先入観に囚われがちな生き物だ。先入観は物事を見る目を曇らせ、事実を覆い隠す。

 現実は、ホンダが開幕戦仕様のベースとなるパワーユニットを持ち込んだテスト6日目以降、パワーユニットにトラブルは起きていなかった。マクラーレン・ホンダが最後の2日間で計6度もコース上にストップしたのは、車体のハーネス(配線)不良による電源シャットダウンという凡ミスのせいだ。その前日にガレージで長時間の修理作業を強いられたのは、ターボコンプレッサーにつないだマクラーレン製のカーボンパイプにクラックが入り、水漏れを起こしたからだ。

 テスト1週目にオイルタンクの不備やICE(内燃機関エンジン)の不調に見舞われたことで、ホンダにはすっかり「トラブルまみれ」というイメージがつきまとった。旧スペックで走った5日目にも、「地絡(ちらく)」と呼ばれるERS(エネルギー回生システム)用高電圧回路がショートに近い状況を起こしかねない警告が出たことで、パワーユニットの確認のために積み替えを強いられ、ホンダに対する”先入観”は固まったのだ。

 しかし、そんな先入観が真実をうやむやにしている――。マクラーレン・ホンダが下位に低迷しているのが、あたかもパワーユニットの信頼性不足のせいであるかのような目で世間は見るが、それでは問題の本質は見えてこない。

 最後の3日間をノートラブルで走行したことからもわかるように、パワーユニットにこれといった信頼性の不安は見つかっておらず、1週目に起きたトラブルへの対策の効果も確認されている。車体ハーネスの問題にしても水漏れにしても、部品を手直しするだけで対策できる類(たぐい)のものだ。

 マクラーレン・ホンダが抱えている真の問題は、「とにかくコース上でのパフォーマンスが低い」ということだ。

「マシンにはまったく問題はない。唯一の問題は、ホンダだ」

 6日目の走行後、メディアに不満をぶちまけたフェルナンド・アロンソにしても、マシンに速さがあればこんな暴言を吐くことはなかったはずだ。

 ホンダの長谷川祐介F1総責任者も、性能の低さにこそ危機感を持っている。

「止まったことが世間で問題視されていますけど、それよりも、ちゃんと走っているときのパフォーマンスがよくないということのほうが大きな問題です。実際のところ、新スペックのパワーユニットに関しては、この3日間で問題はほとんど出ていません。しかし、速さが……我々としては相当な危機感を持っています」

 では、マクラーレン・ホンダに速さがないのは、どうしてか?

 開幕戦仕様のベースとなるパワーユニットが持ち込まれたテスト6日目の3月8日、アロンソがパワー不足に怒りを爆発させた一方で、現場のエンジニアたちも戸惑いを隠せないでいた。実際にコースを走らせてみると、新型パワーユニット『RA617H』はシミュレーションやベンチテストの結果をもとに聞かされていた性能値と比べても、低いパワーしか生み出してくれなかったからだ。

 その理由は、RA617HのICEに盛り込まれた新技術にあった。

「本当にまったく新しい燃焼形態になっていますから、まだわかっていないことがいっぱいありました」

 長谷川総責任者はその技術の詳細を明かそうとはしないが、メルセデスAMGやフェラーリが実用化していると言われるHCCI(予混合圧縮着火)に似たジェットイグニッション技術をホンダも導入してきたものと見られている。

 その技術は、通常の燃焼室内での燃料噴射と着火による爆発ではなく、燃焼室に付随する予備燃焼室ともいうべき小さな空間で着火し、その勢いで燃焼室全体に爆発を引き起こすというもの。こうすることで、通常の燃焼とは比べものにならないほど薄い空燃費で効率的な燃焼を起こすことができ、100kg/h以下という燃料流量に統一されたなかでは燃費が良い=出力が高いということになるのだ。

 それは極めて特殊な技術であり、F1のような1万2000rpm前後まで回転数を回すエンジンにおいては制御が難しい。ホンダが手こずっているのは、そのあたりのようだ。あるホンダ関係者はこう語っていた。

「ジェットイグニッションの燃焼のさせ方にはコツがある。ホンダはまだそれが掴めていない。だからパワーが出ないし、バイブレーションも起きる。バルセロナの3日間で収集したデータをもとに、開幕までの2週間でそのマッピングをどこまで熟成させられるか、時間との勝負だ」

 根本的なパワーの向上のためには、その「コツ」をより正確に掴み、ICEの燃焼室形状から手直しする必要がありそうだという。開幕戦仕様では、一部で報じられた昨年型の40〜50馬力落ちというのは大げさすぎるが、まだ昨年の最終型「スペック3.5」の出力まで至っていないのは事実だという。

「こんなことになるなら、去年のエンジンのままでよかったよ」。アロンソは長谷川総責任者に向かって、そう吐き捨てたという。

 しかし、昨年型をいくら改良したところで、メルセデスAMGに追いつくことは絶対にできない。ジェットイグニッション技術もしくはそれに代わる新技術の導入というのは、勝利を目指すためには渡らなければならない橋だった。

 ただ、2010年以前から基礎研究開発を続けてきたメルセデスAMGでさえ2015年後半、フェラーリは2016年、ルノーは2016年後半になってようやく実戦投入に辿り着いた技術は、我々が想像するほど簡単に確立できるものではない。昨年2月末にF1総責任者のポジションに就き、そこから開発体制と開発コンセプトを見直さなければならなかった長谷川には、10ヵ月という時間しか残されていなかった。

「RA617Hは去年の5月から開発をスタートしたばかりで、この新しいコンセプトのエンジンにはまだ1年もかけられていません。去年までの延長線上で戦っても、それ以上大きく伸びる可能性はありませんでしたから、まったくの白紙から再設計をしましたし、そういう選択をせざるを得ない状況だったわけです。技術軸で整理すれば、『こっちしかないよね』という状況でしたし、それに対する疑問は誰も持っていませんでしたね。ただ、『本当に間に合うのか?』『できるのか?』ということが問題でした」

 そんな時間との闘い、新技術との戦いのなかで、2017年開幕のときを迎えた。

 現状のRA617Hは、伸びるための技術は手に入れたものの、まだそれを使いこなす段階には至っていない。未完成のままの開幕だ。

「やろうと思っているテクノロジー(のベースとなるもの)は全部入っています。よく入れられたなと思うし、よくこのスタートラインにつけたなと思います。HRD Sakuraのメンバーは本当によくがんばったなと。この状態で開幕のスタートが切れることには、少なくとも及第点はあげたいと思います。ただ、レースは結果がすべてですから、世の中のみなさんから及第点はいただけないことも十分にわかっています」

 勝利を目指すためには渡らなければならない橋を、ホンダは渡った。渡ったがゆえに、今こうして苦しんでいる。その橋を渡りきったとき、RA617Hはどこまで進化しているのか――。ホンダの挽回は、年間4基のうちの2基目、3基目、4基目を投入するタイミングで次々と果たされていくことになる。

 ホンダのパワー不足がマクラーレン・ホンダの速さを鈍らせたことは間違いない事実だ。しかし、アロンソが言う「マシンには問題ない」は本当なのだろうか?

 バルセロナのコースサイドで見るかぎり、トップチームのマシンが全開で駆け抜けていくターン2〜3やターン9で、MCL32はスロットルを戻さなければならなかった。そして何より、中低速のコーナーばかりが連続するセクター3が遅い。

 昨年のスペインGP予選タイムと比較すると、ターン1以外は全開のセクター1は、空気抵抗が増えて最高速が鈍ったぶんだけ遅くなり、多くのマシンが0.3〜0.5 秒落ち。マクラーレン・ホンダも0.487秒の低下となっている。コーナーとバックストレートが半々のセクター2は、多くのマシンが1.3〜1.5秒の短縮を果たしているなかで、マクラーレン・ホンダは1.190秒の短縮だった。

 そんななか、コース全体で3.5〜4.5秒ものタイムアップを果たした大きな要因となっているのが、最終コーナー以外は中速・低速のコーナリングばかりが続くセクター3だ。

 車体とタイヤがワイド化された恩恵がもっとも表れるそのセクター3で、多くのマシンが2.5〜2.9秒ものタイムアップを果たしているなか、マクラーレン・ホンダは1.789秒しかタイムが伸びていない。最終コーナーから全開で立ち上がった先のコントロールライン通過スピードはトップと10km/hしか違わず、最終コーナーからの300m程度の全開区間だけでこの差がついたとも考えにくい。

 つまり、車体レギュレーションによるダウンフォース増やタイヤグリップ増が効果を発揮し、パワーや空気抵抗の影響がもっとも少ないはずのセクター3で、マクラーレン・ホンダの伸びしろだけが小さいのだ。

 テスト走行の様子を見るかぎり、現場合わせでボディを切って冷却用排熱口を空けたり、バージボード(※)のフチを削って形状を改めたり、シェイクダウンの低速走行でも走行のたびにブレーキダクトから白煙を上げていたりと、MCL32は設計想定どおりに機能していない点が散見された。

※バージボード=ノーズの横やコクピットの横に取り付けられたエアロパーツ。

 バルセロナ合同テスト後のチーム内の総括では、パワーユニットの出力不足と振動だけでなく、車体側の「アンダーステア傾向とピーキーさ」という問題点が改めて確認されたと、チーム内部関係者は言う。イメージによって作られた先入観を取りのぞいて見えてきたそれが事実だとしたら、開幕戦オーストラリアGPでマクラーレン・ホンダは極めて厳しい現実に直面することになるだろう。

 車体面では空力のアップデートパッケージを開幕戦にぶっつけ本番で間に合わせるべく、急ピッチで開発・製造が進められている。ただ、パワーユニットの熟成作業も進められているとはいえ、トップとの2.7秒差、中団グループ最後尾との1秒差が今すぐに埋まるとは考えにくい。

 だからこそマクラーレン・ホンダの首脳陣たちは、開幕戦オーストラリアで惨敗を喫したときにすべての批判の目がホンダへと向かうよう、さまざまなネガティブキャンペーンを打ったのだろう。彼らとて目の前の結果が求められる雇われの身であり、チームの成功よりも自らの保身のほうが大切だからだ。

 そうやって周囲には雑音が渦巻いてはいるが、技術者たちは純粋に雪辱のための努力を続けている。

「パワー差だけであのタイム差にはなり得ないし、車体側の足りていない部分もチームのエンジニアはわかっています。技術者同士はそこをお互いに認め合っているし、詰めていけると思っています」(長谷川)

 何が真実なのか。それは、すぐには見えてこないだろう。

 しかし、技術者たちは真実をその身に受け止めて戦い続けている。自分たちが挑む橋を渡りきった先に、成功が待っていることを信じて――。

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