油揚げは、江戸時代から「庶民の味方」

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気軽に使えて、おいしくて、腹持ちもよくて、とても頼りになる油揚げだが、いつ生まれ、江戸時代にはどんな存在だったのだろうか。エッセイストの平松洋子さんが、時代考証家の山田順子さんにお話を伺った。

【平松】時代考証をご専門にやっていらした中で、ご自分でパッと思い浮かべる油揚げの情景にはどんなものがありますか。

【山田】時代劇では、油揚げが主役の料理というのは、これまで一回もなかったですね。揚げ出し豆腐なら、幕末が舞台の「JIN―仁―」というドラマで、ヒロインの咲さんと仁先生の愛のシンボルとして扱われたんですが。

【平松】その頃は、薄揚げもあったようですね。

【山田】薄揚げもあったし、厚揚げもあった。豆腐屋さんが自分の店で揚げて容器に詰め、天秤棒で担いで売りに来て、庶民も普通に薄揚げを買っていました。当時の庶民の長屋の狭い台所じゃ、揚げ物は無理だったんです。

【平松】揚げ油に使ったのは菜種油ですか?

【山田】最初の頃は胡麻油、その後は菜種油になり、江戸の後期になると綿実油。江戸の初期と幕末の頃では、油が違うから油揚げも相当違っていて、色もどんどん白くなります。

【平松】当時、油は庶民にとって高嶺の花的存在だったんですよね。また、油に慣れていないからだと思いますが、当時の文献を見ると、何度も油抜きをしています。

【山田】江戸初期は胡麻油を、食料品というより灯明(とうみょう)、行燈(あんどん)などに使っていました。武家や大店は油を使えたけど、庶民は松脂(まつやに)なんかを燃やしていたんです。江戸中期になって、やっと庶民が油を使えるようになりました。

【平松】油が生活の中に浸透していく過程と、油揚げが普及していく過程は、ほぼ同時進行だったということですね。

【山田】そうですね。奈良時代に実は、油で揚げるお菓子は唐や隋の文化として入ってきていたんです。でも結局普及しなかった。

【平松】奈良時代に使っていた油は何ですか。

【山田】エゴマじゃないかな。鎌倉時代に中国から豆腐が、室町時代には油で揚げる調理法が入ってきた。で、たぶん応仁の乱の前頃の『尺素(せきそ)往来』という本の中に初めて「豆腐上物(あげもの)」って言葉が出てきた。戦国時代にはお寺や支配層のお武家様が食べていて、江戸期に入り豆腐や油が普及してきてようやく、庶民の口に入ったということですね。

【平松】江戸のおかず番付に、油揚げ料理がいろいろ登場しているのが実に興味深いです。

【山田】番付がつくられた江戸後期の油揚げの値段は、5文程度なんです。今の貨幣価値で日当8000円としたときの100円ちょっと。お茶は4文、蕎麦は16文でした。

【平松】そう考えると、今の値段とそう変わってないということですね。油揚げ、さすがだなぁ(笑)。豆腐の値段設定はどうだったんですか。

【山田】当時の豆腐はかなり大きくて、今の4倍くらいで一丁50文くらい。それを半分とか4分の1とか、サイコロ状にしてもらったものを買う。がんもは8〜12文。油揚げはとにかく庶民が気楽に買える値段でした。豆腐を買っても翌日まではもたないけれど、油揚げならもつし、江戸の町で売るためには、軽くて保存がきくほうがいいじゃないですか。

▼姿いろいろ、各地の油揚げ

●京揚げ《京都》
おばんざいや炊き込みご飯など日々の食卓に欠かせない京都の「おあげさん」は、サイズが大きく、長さ2cm×幅12cmほど。色もはんなり薄めで、しっとりとした食感。味わいも上品だ。とにかくたくさん使うので、このサイズが便利だという。
●栃尾揚げ《新潟・長岡》
新潟県のほぼ中央に位置する栃尾の名物。厚さが3cmほどあるのが特徴で、サイズも大きめ。切り目を入れて、ねぎや味噌、納豆などを挟んだメニューは居酒屋などで定着。揚げた後に数個ずつ串や紐を通して吊し油をきるため、穴が開いている。
●松山揚げ・南関揚げ《愛媛/熊本》
どちらも常温で3カ月ほど日持ちする特殊な油揚げ。ごく薄く切った豆腐生地をプレスして水分を十分に抜いてから揚げたもの。数枚セットでパックされたものや、すぐ使えるように短冊切りになった商品もある。大きいものはそのまま割ったり切ったりして味噌汁や煮物に入れるとコクが出るのでお薦めという。
●定義の三角揚げ《宮城・仙台》
仙台市の西側、西方寺の参道で販売する三角形の油揚げ。平家の平貞能公がこの地に逃れて名を「定義」と改めたことが由来という。外側がカリッとして、中はふんわり。参道にある豆腐店では、揚げたてアツアツをその場で食べることもできる。

■甘辛い味になって、いなりは大普及

【平松】そして油揚げは、次にいなり寿司という画期的な変身を遂げる。あれがあったからこそ寿司文化も幅が出たようなところがありますよね。

【山田】江戸のお芝居は、だいたい朝昼晩と食べるんです。早朝まず芝居茶屋で軽い朝ご飯を食べ、6時くらいから芝居を見始めて、お昼に食べるのが幕の内弁当。で、終わるのが5時とか6時で、お腹が空くからその前の時間か終了後に何かつまむ「小腹(こばら)」という文化があって、助六弁当というものができたんです。だから助六はお昼じゃなくて、夕方食べる「おやつ」なんです。かんぴょう巻きといなりは、ちょっと小腹に入れるにはちょうどいい。持ち帰りもできるし、日持ちもするし。

【平松】江戸後期に歌舞伎という娯楽が普及して、幕の内弁当が出現し、助六弁当ができた。庶民文化の広がりの中に、油揚げがちゃんと関わっている。

【山田】そこに介在するのは醤油と砂糖で、いなり寿司の普及とはセットなんです。どうも初期のいなり寿司は、わさび醤油をつけて食べたようなんですよ。それが砂糖と醤油が普及して、油揚げを甘辛く煮るってことを誰か考えたんでしょうね。蕎麦にしろ、蒲焼きにしろ、砂糖と醤油の普及が日本料理を大進歩させてますから。そういう意味ではいなり寿司も甘辛味になって急においしくなり、大普及につながったんじゃないかと思います。

【平松】甘辛い「江戸の味」とくっついたことが、油揚げの普及を後押しした、と。

【山田】油揚げは買っておくと重宝するし、毎日でも売りに来る。何度も油抜きすることで“肉感”が出るし、煮物に入れるとコクも出ますから。豆腐は淡白だけど、労働者や庶民は体力を使うから、脂肪分が欲しい。

【平松】おのずと味覚に訴える力があったんでしょうね。出自が豆腐でも、食べごたえという点で全然違いますね。油揚げは、生活感のある味。

【山田】冷や奴など豆腐はそれ単体で食べられるけど、油揚げはそのままじゃまず食べない。だから、常に調味料との和合によって発達してきた素材なのかなと思いますね。

【平松】油揚げって、調味料も文化も、みずからどんどん吸収し、発展していく。時代を超えて生き抜いてきた、たくましい存在ですね。

【山田】調味料の歴史を全部吸い込んで、歴史ができた感じですね。で、油揚げが入ることで、煮〆の大根や里芋だって、おひたしの小松菜だって、素材の価値がワンランク上がる。それがたった100円で買えるってところが、庶民にとって魅力じゃないですか。

【平松】今日お話を伺って、いま私が思っている油揚げの魅力というものが、江戸の人が油揚げに感じていた魅力とすごく共通しているんだなと実感します。油揚げを通して、江戸の人と近い感じがしてうれしくなりますね。

【山田】同じ魅力を感じていたと思いますね。すごく頼りになる食材だと。今みたいに肉に頼れない分、江戸の人は油揚げと仲良く付き合ってたんですね。

【平松】豆腐が進化しただけのことはある! やはり、噛みしめることができるってことは大きいですよね。

【山田】油揚げはさすがに、噛まないでは飲み込めないですよ。しかし、きつねうどんってのは偉大な存在ですね。油揚げ一枚入るだけで、すごい豪華感ですよ。厚いのが一枚ドーンとのっているのを見ると、「今日はお前を食べてやるからな」って、油揚げと対峙する感じですね(笑)。

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山田順子
時代考証家。高校時代から時代考証家を志し、CMディレクター、放送作家を経て実現。TBS「JIN―仁―」「天皇の料理番」などで活躍。著書に『江戸グルメ誕生』(講談社)など。
平松洋子
14年目に入った本誌連載「台所の時間」でもおなじみのエッセイスト。食文化と暮らしをテーマに執筆。『サンドウィッチは銀座で』(文春文庫)ほか著書多数あり。

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(撮影・宮濱祐美子)