写真提供:マイナビニュース

写真拡大

●「旧吉田茂邸」が歩んだ歴史--8回にわたる増改築、焼失からの再建
4月1日より、神奈川県大磯町の旧吉田茂邸の一般公開が開始される。吉田茂元首相(1878〜1967年)は、戦後の混乱期に通算5期にわたり首相を務め、日本の戦後復興の礎(いしずえ)を築いた人物だ。その吉田茂が、昭和19(1944)年頃から亡くなった昭和42(1967)年までを過ごしたのが大磯の旧吉田茂邸である。

残念ながら、旧吉田茂邸そのものは2009年に原因不明の火災により焼失したが、その後、地元・大磯町が神奈川県からの協力を得ながら、再建事業が具体化。総工費5億4,000万円をかけ、このほど再建工事が終了した。そこで今回、生まれ変わった旧吉田茂邸の味わいとその歴史を、生前の吉田茂が愛したと言われる地元・大磯のグルメとともに紹介しよう。

○庭園の轍(わだち)にはエピソードが

旧吉田茂邸は、JR東海道線の大磯駅と二宮駅のちょうど中間地点付近の国道1号線沿いに位置し、一帯は「神奈川県立大磯城山(じょうやま)公園 旧吉田茂邸地区」として整備されている。駐車場もあるが駐められる台数が少ないので、一般公開後の混雑を考えれば、バスで訪れるのが無難だろう。大磯駅前から二宮駅方面へのバスに乗り、「城山公園前」バス停で下車すれば、入り口まで徒歩2分ほどだ。

敷地の入口を入ると、生前の吉田がこよなく愛したというバラ園があり、その先に見えてくるのが、サンフランシスコ講和条約を記念して建てられた兜門(かぶともん)だ。この門は、幸いにも火災による焼失を免れた。

兜門をくぐるとその先には、世界的に有名な作庭家で、田中角栄邸の庭園なども手がけた中島健(1914〜2000年)の設計による、池を中心とする日本庭園が広がっている。高台に登ると吉田茂の銅像が立っており、その向こうには相模湾が広がっている。

ちなみに、兜門から庭園内に石の轍(わだち)が敷かれているが、これは昭和41(1966)年に、当時、皇太子だった今上天皇と皇太子妃であった美智子さまがご来訪した際、お車で入っていただくため、配慮して造ったものだという。しかし、実際のおふたりはお車ではなく、歩いて入られたというエピソードが残っている。

○旧吉田茂邸の歴史、8回にわたる増改築

さて、邸宅を見学する前の予備知識として、旧吉田茂邸の歴史を整理しておこう。この邸宅は、明治17(1884)年、養父で横浜の豪商だった吉田健三が建てた別荘がもととなっており、大磯町郷土資料館によれば、その後、吉田健三の跡を継いだ吉田茂の手により、8回くらいの増改築が行われたという。

吉田茂は、昭和19(1944)年頃からこの地に住み始め、昭和20(1945)年には大磯を本邸と定めた。そして昭和20年代、吉田茂が首相だった時代に、建築家・木村得三郎(きむらとくさぶろう 1890〜1958年)の設計により建てられたのが、応接間棟(1階部分が応接間、2階部分が書斎)と玄関、食堂だ。

さらに昭和30年代には、新館(中2階、2階)と呼ばれる棟が、近代数寄屋建築で有名な建築家・吉田五十八(よしだいそや 1894〜1974年)の設計により増築され、その際、玄関と食堂も改築された。吉田五十八の設計による部分は、京都の宮大工による豪壮な総檜造りで、旧吉田茂邸の外観の主要部分を成している。

首相退任後も、吉田茂のもとを訪れる政財界の要人は絶えることなく、その様子から「大磯詣」という言葉も生まれた。吉田茂は、大磯の海と山に囲まれた自然と、政財界の要人が訪れることを掛けて、自邸を「海千山千荘」と呼んでいたという。そして、昭和42(1967)年10月20日、吉田茂は新館の寝室「銀の間」で息を引き取り、終焉の地となった。

吉田茂の死後、邸宅は2009年3月、原因不明の出火によって焼失。この事態を受けて大磯町は「大磯町旧吉田茂邸再建基金」を設置し、寄付を募った。その基金が一定額に達したことから、2012年に神奈川県と協定を結び、再建事業が具体化する。その後、2015年に再建工事がスタートし、総工費5億4,000万円をかけ、2016年に工事が完了した。

今回の再建工事では、大正時代に建てられ、焼失時も残っていた建物は再建せず、応接間棟、玄関、食堂、新館部分のみを再建工事の対象とし、これに付随する形で、休憩コーナーや事務室、エレベーターなどを設置した。また、地階に存在したワインセラーも再現せず、研修室としている。

邸宅が歩んできた歴史を知ったところで、今度は実際に、邸宅内部を順に見ていこう。

●吉田茂が愛した風景、愛したグルメを追体験
○首相官邸に直通した黒電話も

玄関ホールから右手に進むと「楓の間」と名付けられた応接間になっており、マントルピース(暖炉)を中心に、ソファーが配されている。焼失前はこの部屋に執務机も置かれていたが、机は再現されていない。

応接間棟の2階は畳敷きの和室になっており、掘り炬燵(こたつ)式の机などがある。この部屋で目にとまるのは、もちろんレプリカではあるものの、首相官邸に直通していたという黒電話だ。また、応接間に隣接する浴室には、大磯の船大工が関わったという舟形の浴槽が配されており、とても印象的だ。

さて、1階に下りて玄関ホールから逆方向に進むと、アール・デコ風の意匠で設(しつら)えられた食堂(ローズルーム)に入る。この部屋の特徴的な壁には羊の皮が用いられていたが、今回の再建では合成皮革を使用している。

また、食堂奥には、蒋介石から贈られた金屏風が飾られていたが、残念ながらこれも焼失してしまった。なお、食堂の椅子は焼失時のものではなく、昭和40年代に置かれていたものを元に再現したという。

○死の前日にも眺めていた富士山の眺望

食堂横のやや長い階段を上っていくと、新館の2階につながっている。新館は中2階と2階のみで1階は存在しない。新館2階には2部屋あり、それぞれ「金の間」「銀の間」という。金の間は、文字通り部屋の彩色に金色を多く取り入れた、海外からの賓客を迎えるための部屋で、明るく眺望がいい。当時の西ドイツのアデナウアー首相来日時に、この部屋で吉田茂と歓談する写真が残されている。一方、銀の間は吉田茂の書斎兼寝室として使用された部屋で、天井に錫箔(すずはく)を使用していることから銀色に見え、部屋全体が落ち着いた雰囲気だ。

晩年の吉田は、多くの時間をこの新館で過ごしていたといい、先ほどの応接間棟とは別に、こちらの新館にも浴室が造られている。新館からは相模湾のほか、秋から冬にかけては富士山が見事に見えるが、吉田茂は死の前日も、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたという。

さて、旧吉田茂邸は大磯町郷土資料館の分館として、博物館法に基づいて公開される。大磯町郷土資料館館長(学芸員)の國見徹館長は、「(焼失当時の姿を)再現した建物自体が博物館としての展示資料。吉田茂が生活した空間を体験してほしい」と話す。

●information
旧吉田茂邸
住所: 神奈川県中郡大磯町国府本郷
公開時間: 9:00〜16:30(入館は16:00まで) 。庭園は17:00まで
入館料: 大人500円、中高生200円、小学生以下無料。庭園は無料
休館日: 毎週月曜(月曜が祝日の場合は翌火曜)、毎月1日、年末年始。2017年4月1日と3日は臨時開館
アクセス: JR東海道線「大磯」駅下車、バス「二宮駅」行・「国府津駅」行・「湘南大磯住宅」行で「城山公園前」下車

○旧吉田茂邸再建公開記念ランチも

リニューアル工事がこのほど完了し、4月5日にオープンする近隣の大磯プリンスホテルでは、旧吉田茂邸の公開に合わせ、吉田茂が愛したと言われる大磯の名物を味わえる"ランチメニュー"と"宿泊プラン"を販売する。

ランチは、生前、吉田茂が好んで食べたと言う「井上蒲鉾店」の"はんぺん"、「真壁豆腐店」の豆腐、「新杵(しんきね)」のまんじゅうを一度に味わえるというメニューだ。同メニューによるランチは4月5日〜7月7日限定で、5日前までに予約が必要。ランチ会場は大磯プリンスホテル「メインダイニングルーム」で、料金はひとりあたり3,500円(税込、別途サービス料)となる。

また宿泊プランは、旧吉田茂邸と庭園のガイド、城山公園内茶室での抹茶と生菓子の提供、上記の大磯の名物が味わえるプレート付きディナービュッフェなどのプランで、ひとりあたり1万3,457円より(1室2人利用時。税込)。1週間前までに予約が必要だ。

さて、大磯は明治から昭和にかけて別荘文化が花開いた土地柄であり、旧吉田茂邸のほかにも、政財界で活躍した様々な人士の別荘建築が残されている。もちろん、全ての別荘が公開されているわけではないが、町を歩くと、別荘時代の雰囲気は、わずかながら今も残されている。

その他、大磯には日本の海水浴場発祥の地とされる海岸や、すばらしい眺望が望める「湘南平」へのハイキングコースなどもある。旧吉田邸の見学と町歩きやハイキングを組み合わせ、一日楽しんでみてはいかがだろうか。

○筆者プロフィール: 森川 孝郎(もりかわ たかお)

旅行コラムニスト、オールアバウト公式国内旅行ガイド。京都・奈良・鎌倉など歴史ある街を中心に取材・撮影を行い、「楽しいだけではなく上質な旅の情報」をメディアにて発信。観光庁が中心となって行っている外国人旅行者の訪日促進活動「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の公式サイトにも寄稿している。鎌倉の観光情報は、自身で運営する「鎌倉紀行」で更新。

(森川孝郎)