「教育勅語」を巡る問題を仔細に検討しています。きちんと読んでしっかりしたリアクションをいただくケースもありますが、表層以前のコメントを、匿名のツイッターで目にしたりすることもあり、後者のようなケースはやや残念です。

 「教育勅語を作った時代背景を理解していない人」が私の記事を読んで「教育勅語を作った時代背景を理解していない」という種類の書き込みをしているのを見て、「これはいい」と思いましたので、今回は「教育勅語を作った時代背景」に焦点を当ててみたいと思います。

 また、この種の記述は客観叙述が望ましいと思うのですが、明治期の外交は曽祖父など父祖が直接当事者として関わったケースがあるので、いくつか身近な例も引きながら「内部に緊張をはらんだ明治期外交」という現実を素描しておきたいと思います。

 先に結論部分を書いてしまうなら、明治初期、外事に通じた人材は薩摩・長州閥にむしろ少なく、旧幕臣や親藩譜代、あるいは土佐・肥前などに多かったこと、日本の国内、特に官界や民間にあって、薩長閥族政府の方針に必ずしも同意せず、常に批判的、建設的に対案を検討し、実行していた人々の考えを、紹介できればと思います。

 例えば「坂本龍馬」(1836-67)を考えてみましょう。

 「日本を洗濯いたし申し候」

 など、スケールの大きい国際的な視野を持って、大政奉還などに尽力した坂本は、土佐藩の下級郷士で薩摩でも長州でもありません。

 また、万延元(1860)年、咸臨丸で渡米して米国の現実を知り、大局を見据えて日本国内での内戦を避け、江戸城無血開城に導いた海舟こと勝麟太郎安芳はまぎれもなく徳川幕府側の軍事総裁職にありました。

 明治維新後も旧幕臣の代表格として参議兼海軍卿など、政府の重職を歴任しているのは、現実に海外先進国、もっと露骨に言うなら、当時の帝国主義列強の現実を知る数少ない日本人だったからです。

 こうしたカウンターパワーの力がなければ、戊辰戦争直後には井の中の蛙に過ぎなかった閥族政府に、日本の舵取りは不可能だったでしょう。

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薩摩の「攘夷」:生麦事件と薩英戦争

 鳥羽・伏見の戦いなど戊辰戦争を制した維新の「官軍」は、もともと「尊皇攘夷」を唱える集団が核となっていました。これは広く知られる話と思いますが、正しく深く理解されているか、やや疑問に思います。

 「尊王・攘夷」とは

1 「天皇を敬い」
2 「夷狄=外国人を攘鎖=払いのけ追い出す」

 という2本の柱から成り立つ考え方ですが、ここで言う第1の「尊王」は、当時の現実としてまず第1に「反幕府」つまり徳川政権を相対化する上での日本古来の統治と精神的な支柱であって、国際社会の中に大日本帝国として打って出る、といった発想はそもそもないことに注意しておきます。

 なぜと言って、すぐに「攘夷」ですから、分かりやすいですね。

 文久2(1862)年旧暦8月、神奈川は現在の横浜近郊、生麦あたりを通っていた薩摩藩主島津茂久の実父、島津久光公の行列に、大名行列と接するTPOを何も知らない、馬に跨った英国人の4人づれが出くわします。

 東海道で乗馬を楽しんでいたとも、観光で川崎大師を目指していたとも伝えられますが、大名行列と正面から接近遭遇してしまいました。

 薩摩側は「下馬せよ」と彼らの常識で伝えます。

 英国人は「除けろ」と言われたと思ってわき道にそれ、そのまま進んで行きます。英国人たちの乗った馬は、特段の悪気もなく、島津公の乗った駕籠に着実に近づいていった・・・。

 薩摩側としてはただごとではありません。紅毛人が馬に乗ったまま藩主の駕籠にストレートにアクセスしている・・・。何かあってからでは遅いのです。当然ながら「敵」を討ち取る行動に出ます。

 英国人としては堪ったものではありません。4人のうち1人が斬殺、2人が重傷を負い、1人だけ何とか逃げて助けを求めに行きましたが、こうなるとことは簡単に収まりません。広く知られた「生麦事件」の実際をスケッチしてみたものです。

 結局、翌文久3年、交渉のため英国軍艦2隻が鹿児島湾に入港しますが円卓は不調に終わり、薩摩船を英艦が拿捕したのを皮切りに薩摩側は砲撃を実行。

 「薩英戦争」が勃発してしまいました。

 英艦側の近代装備は充実したもので、鹿児島市の約1割を焼失する被害を蒙ってしまいます。

 しかし薩摩側も善戦しました。英国側の上陸攻勢を決死の覚悟で阻止、結局英艦隊を横浜に追い返してしまいました。

 薩摩側の「攘夷」の現実は1862-1863年時点でもこんなものに過ぎなかった。ここで、生麦では大名行列の1人として従い、また薩英戦争に至る経緯でも交渉で重責を担ったのが大久保一蔵にほかなりません。

日本植民地化の危機と日米修好通商条約

 大久保一蔵、のちの大久保利通は島津久光の近親で、一蔵の名も久光公から賜ったものだそうですが、彼は京都で「公武合体論」を進めるメンバーの1人として活躍します。

 「公武合体」を細かく論じる紙幅はありませんが、要するに公=皇室と武=幕府をドッキングさせて、新しい政治体制を確立しようという当時主流の動きの担い手として、岩倉具視もいれば大久保たちもいた。

 これに先立って、日米修好通商条約(1858)年を、天皇の許可=勅許なしに結んだ幕閣、特に大老井伊直弼以下「南紀派」施政への苛烈な批判があり、のちの15代将軍一橋慶喜を頂く「水戸派」との抗争がありました。

 元来は第14代将軍職を巡っての勢力争いが幕府内部を分裂させていたのです。

 第13代将軍徳川家定が病弱ないし廃人同様の状態で実子がなく、今後も子供が作れる見通しがなかったため、お決まりのような後継争いが発生します、

 英明で知られた20歳過ぎの水戸藩主徳川斉昭の子一橋慶喜を押す「一橋派」は、水戸国学の背景を持ち尊王的でした。

 これに対して紀伊藩主徳川慶福を押す一派「南紀派」が争いますが、廃人将軍家定は安政五(1858)年旧7月5日に諸大名を集め、紀伊藩主徳川慶福を後継として発表するとともに一橋派の諸大名を処分、翌日死んでしまいます。ロクでもない政権交代劇と言わねばならないでしょう。

 かなり無理やりに南紀派が政権を奪取した背景には、この直前、朝廷に図らず勝手に「日米修好通商条約」を結んでしまった経緯があったのです。このあたりの正確な史実は専門家や書籍に譲り、本論に即して以下、簡単にまとめてみます。

 ペリー来航で結ばれた日米和親条約はイントロで、米国本来の目的は当然ながら通商にありました。日本初の外国総領事として着任した米国のタウンゼント・ハリスは、計画通りに通商条約の批准を迫ります。

 米国側は英国のインドや清朝支配、アヘン戦争やアロー号事件などの例を挙げ、このままでは列強の植民地にされてしまう。アヘンの輸入を制限した方がいい、きちんとした通商条約を結んでおくべきだ、などとしつつ、列強に領事裁判権を認めつつ日本に関税自主権がない不平等条約を押しつけてきました。

 毛唐嫌いの孝明天皇=明治天皇の父=は日米修好通商条約に許可を出しません。しかし列強の圧力は苛烈で、最終的に幕府は「安政の五カ国条約」を勅許なしに結んでしまいます。

 元来、井伊大老は勅許なしの条約批准に反対だったと言われますが、結果的に日本の命運を勝手に変えてしまった幕閣に対して、全国各地で一斉に幕府への批判が噴出します。

 ここで井伊大老直弼は徹底した弾圧政策で臨みました。いわゆる「安政の大獄」で、このとき命を落とした中に長州の吉田松陰、越前の橋本左内、京都の儒者頼山陽の三男である頼三樹三郎など、そうそうたる人材が殺害されてしまいます。

 井伊大老は水戸藩にもきわめて強圧的な態度に出、これが最終的に引き金を引いてしまいました。

 1860年3月3日、雪の日の朝9時頃、今の警視庁があるあたり、桜田門の外で井伊直弼一行は水戸藩を脱藩した浪士グループに元薩摩藩士が1人加わった集団に襲われ暗殺されてしまいます(「桜田門外の変」)。

 先に触れた「生麦事件」が起きるのは、この「桜田門外の変」の2年後、また薩英戦争は3年後のことです。井伊大老存命中、幕府支配層の空気はいまだ極めて「攘夷」的なものでした。

 逆に言えば、ほとんどの日本人が、西欧列強がどれくらい強大であるか、本当のことは知らなかった。

 「公武合体論」は第14代将軍となった家茂に、孝明天皇の妹・和宮が降嫁することでにわかに現実味を帯びますが、家茂(1866年7月20日)と孝明天皇(1867年1月30日)の相次ぐ急死で座礁します。

 一橋慶喜が将軍に就き「公武合体」から「倒幕」の薩長同盟へと急旋回して、明治維新を迎えるわけで、この時点での維新は、政権奪取を巡る内乱というのが実相にほかなりません。

 そこで実権を握った、必ずしも諸外国の実情に通じていなかった薩長、また主流派公卿が初めて「世界」を知ることになったのが「岩倉使節団」(明治4年末―6年秋)です。

 このとき約2年ほど諸外国を巡った岩倉具視、大久保一蔵改め利通、桂小五郎改め木戸孝允、そして伊藤博文といった人々が、明治政府の主流として日本の舵取りを決定づけていくわけです。

 「教育勅語」は「大日本帝国憲法」と双子のようにして作られましたが、これらを制定する実質的な指導者、黒幕は伊藤博文ら明治20年代初めの政府首脳でした。

 その基本的な理念は列強に伍して日本の独立を守り、また「あの」井伊大老以下の幕閣たちが勝手に結んでしまった「安政不平等条約」をどうしたら解消できるかを検討したわけです。

 ちなみに、松下村塾で学んでいた伊藤博文は安政の大獄で師の吉田松陰を殺されてしまいました。

 かつて「尊王攘夷」でおだを上げていた、血気盛んな若者が、日本全体をどのように束ねて、諸外国に対抗していくかを考える中で「国権主義」が工夫されたのにほかなりません。

 実はこの時期、親藩である岡山・津山藩出身で英語ができた私の曽祖父は、政府に下級外交官として招聘されて不平等条約改正の末端に関わりましたので、そのあたりから続稿を準備したいと思います。

 ちなみに当時の外務大臣、陸奥宗光は紀州藩士の生まれで、幼児期に父親が政争に敗れて困窮を極めるなか、江戸に出て桂小五郎、伊藤博文らと交わり、勝海舟の海軍操練所に学び、坂本龍馬の亀山社中にも加わったメンバーです。

 「あのとき」井伊幕閣があんなものを結ばなければ・・・という思いは、彼らにとって同時代の出来事で、執念の条約改正に命を懸けて取り組まざるを得なかった。

 そんな中で書き下ろされた「教育勅語」の成立背景を考えるには、列強の東アジア支配とそれに対抗する日本の実情を考えねばなりません、21世紀の現状は当時と全く違うことも、はっきり認識しなければならないでしょう。

筆者:伊東 乾