「編集長、産むことのメリットとデメリットを教えてください」今年で33歳になるワーカホリックなプロデューサーに、ワーママ編集長(私)が詰め寄られたことからスタートした本企画。第10回となる今回は、「似る」という現象について考えてみたいと思います。

わが子が「自分と似ること」に対する嫌悪感や危機感。私の場合、「似る」ということに関しては、ポジティブな感情よりも、ネガティブな感情の方が、どうしても強く出てきてしまうのです。

私(左)と海野P(右)

自分に似られては困る

前回、根が自己チューな性格である私が、2歳の娘に善行を教えることに日々たいへん難儀しているという話を書きました。

つまり、自然体の私をそのままマネられては、娘に善行が身につかないので、マネられないように、みずからも30代を半ばにして改めて身を糺(ただ)すほかないという情けない事情を、ため息をつきながら綴りました。

要は、似られては困るんです、自分に。

ところが、娘はどんどん私に似てきます。

どんどん頑固になっていき、どんどん短気になっていき、どんどん几帳面になっていき、どんどん他人に厳しくなっていき、どんどん独裁的(平たく言えば、人の話を聞かないということです)になっていきます。

その“進化”はあまりにも着実かつ正確で、これはもうDNAに刷り込まれていることだから、今さら「善行を教えよう」とか浅ましい努力をしても意味がないのか……手を打つならDNAの配列が決まる受精の段階で何とかするしかなかったのか……と愕然としてしまいます。

「似たらイヤだから、産みたくない」

「ウートピ」は迷えるアラサー女性のためのニュースサイトなので、編集長として読者ヒアリングなどをしていると、「子供を産みたくない」という女性に時々出会います。

産みたくない理由として、彼女たちがよく口にするのが、「自分と似たらイヤだから」。こんな自分と似たら、かわいそう、人生で苦労する。そもそも似ていることが受け入れられない。似ていたら、愛せない気がする。似ることに対して、そういう不安や恐怖を感じているから、産みたくない、と。

ああ、わかる、わかる。

彼女たちの話を聞きながら、深くうなずきます。そして、自分が産んでからようやく気づいたことを、事前に的確に予測している彼女たちの鋭さに驚かされます。

「自分と似たらイヤだから、産みたくない」

この結論をあらかじめ導き出せる人は、すぐれた感受性の持ち主なんだと思います。真理を正しくつかんでいると思います。「そろそろいい歳だから、産んどくか」「友達の子を見てたら欲しくなったから、産んじゃった」そんなふうに、ひょいと産めちゃうタイプの女性(って、私のことですが)より、よっぽど人間として分をわきまえていて謙虚であると言えます。

「似ていないところ」を見つけた時の安堵感

先日も、床についている小さなシミ(本当に小さい!)を目ざとく指さし「汚れてるよ」と指摘してくる娘を見て、「ああ、また似てきた」と深くため息をつきました。

とかく「似ているところ」ばかり目につくのですが、たまに「似ていないところ」を見つけると、雲間に光が差したようにぽっと心が明るくなります。

例えば、娘はよく「社交的」と評されます。祖父母も、保育園の先生も、親類も、ママ友も口を揃えて、そう彼女を評します。

実際、私のように「ひとりでいるのが一番落ち着く」というタイプの人間からすると、「それ、無理してんの?」と時に心配になるほどの社交性を、娘は行く先々で発揮します。その様子は、まるで選挙期間中の政治家のようで、常に満面の笑みで手を振り、目に入るすべての動く物体を有権者とみなしているがごとく、分け隔てなくハグやハイタッチを施します。

夫もそこまで社交的な方ではないので、この性質がどこからきたものなのか、たいへん不可解なのですが、彼女の社交性に気づくたび、私の胸のうちに一筋の希望が差します。出所不明のこの遺伝子に心から感謝します。

誰に似たのやら……。

お洒落でモテて愛人がいて、最期は(おそらく)乗せられるがままに先物取引に手を出し破産同然で亡くなった、ただただ気のいい祖父の血を引き継いだのかもしれません。あるいは、唄(うた)に三味線に多芸で交友関係が広くて、80歳を超えてからも友人と徹夜で麻雀に明け暮れている祖母の血を引いた可能性もあります。

どこからきたものかわかりませんが、私の中のどこを探しても見当たらない、娘の社交性に気づくたび、心底ほっとします。

「(愛人に貢いで先物取引で財産を食いつぶしたけど)楽しい人だったよね」といつも親族の間で苦笑まじりに思い出される祖父に、仮に似てしまったのだとしても、自分に似ていない部分があるだけで、「よかった」と安堵します。

穀潰しのおじいちゃんにも感謝

「自分に似ていなくてよかった」は、裏返せば、「自分以外の誰かに似ていてよかった」ということ。たとえその「誰か」に、浪費家とか、浮気性とか、優柔不断とか、いろんな欠点があるとしても、自分にはないものを持っている。それだけで、なんだかとてもありがたい存在に思えてくるんです。

父、母、夫、舅(しゅうと)、姑……その他もろもろ血のつながりのある人たち。長年普通に接していると、イヤな部分にばかり目が行きがちです。でも、産んで娘と自分の「似ている/似ていない問題」に直面してからは、イヤな部分はそれほど気にならなくなり、むしろ「自分にはない長所」に目が行くようになりました。

もし、娘が100%自分の血を引き継いでいたら、とても直視できたもんじゃありません。苦しすぎて窒息してしまいます。でも、そうじゃなかった。許せる人も許せない人も含めて、いろんな血が混ざっているから「自分に似ていない部分」が出てきて、それが救いになっている。穀潰しのおじいちゃんだって、いてくれてありがとう、って素直に思えるんです。

子育ては嫌悪感との闘い?

人間は自分と似ている存在に対して、本来的に嫌悪感を催すものである。

このコラムを書くにあたり、脳みその奥からホコリをかぶった状態で出てきた言葉です。大学で政治思想史か、哲学か、美学か、そのへんの勉強をしていた時に聞いた言葉なんですが、掲載日まで出典を探し続けてもわからなかったので、うろ覚えのまま書かせていただきました(出典に心あたりのある方は、お知らせください)。

要は心理学などでもよく言われる近親憎悪に近いことだと思うのですが、「本当にそうだなあ」と。

自分と血のつながった子供を持つことは、嫌悪感との闘いなのかもしれません。似てほしくないのに、似てくる。どんどん似てくる。抗いようもなく似てくる。やばい。このままじゃ、絶対にやばい。

さて、この結末はどうなるんでしょうか?

私が善行を積み続けることに奇跡的に成功して、本来の私とは似ても似つかない人間ができあがるのか。やっぱり、私にそっくりな頑固で短気な人間ができあがってしまうのか。はたして娘はどんな人間になるのでしょうか。

ま、正解は後者でしょう。

そりゃ、わかってます。それでも抗うんです。少しでも似ないように。こんな希望のない努力も「成長」って、言えるのかな? だとしたら、私も日々微細ながら成長していますよ。最近ちょっとは海野Pの言うことにも、耳を貸すようにもなったはずだし。

(ウートピ編集長・鈴木円香)