『騎士団長殺し』(村上春樹/新潮社)

写真拡大

 2月24日に発売された作家・村上春樹氏の新作長編小説『騎士団長殺し』(新潮社)が2週間で約62万部を売り上げ、その快進撃が止まらない。出版不況が叫ばれるなか、「村上ブランド」は健在で、それは発売前の時点で第1部と第2部の合計発行部数が約130万部に及んでいたことからもわかる。

 村上氏は、2009年にも発売したシリーズ総売上が300万部を突破するメガヒット小説『1Q84』(同)を世に送り出しているが、なぜ彼の著作はここまで売上を伸ばせるのか。作品のおもしろさ以外にも理由があるのだろうか。立教大学経営学部教授の有馬賢治氏に解説してもらった。

●固定客を離さず、新規客を次々取り込む

「作品内容ではなく、現象をみてマーケティングの見地から分析しますと、村上氏の出す作品には、“老舗の暖簾の強さ”のようなものがあるといえます。つまり、中身の分からない販売前から予約客が付くという現象です。こうした売り出す前から買い手がつくものの売れ方は、事業者への信頼がないと起こりえないものです。村上氏は、これまでの実績とクチコミによって長期的に固定客を獲得できていますから、発売前から話題を集められるわけです。ですから、出版社は見込み顧客を大きく見積もることができるのです」(有馬氏)

 有馬氏によると、高級ブランド・エルメスの「バーキン」が、数百万円という価格帯にもかかわらず発売前に世界中から予約が入るのも、老舗による信頼の証であり、価格帯こそ違うが村上作品の人気もこれに近い購買心理があるという。

「村上氏もいきなりベストセラー作家になったわけではありません。1979年に作家デビューして以来、多くの作品を発表し、一定の期間を経て愛読者を増やしていきました。また、国内外でさまざまな文学賞を受賞したり、売上に関するニュースが報じられたりするパブリシティ効果も作品に対する期待感を高めてきました。その結果、次々と新しい世代がトライアルで村上作品に触れるようになり、そのまま愛読者となる人も少なくなかったといえるでしょう。こうして既存読者を離さず、さらに新規読者を取り込んでいくうちに大きな市場を作っていったわけです」(同)

 多くの愛読者が内容の評判を待たずに購買するのも、新作に対する「きっと期待を裏切らない」という信用がそうさせているのだと有馬氏。また、村上氏は作品を発表するスパンが他の一般的な作家よりも長く、期待感をあおる点も老舗の商品に似ているとのこと。

「老舗は品質を守るために大量生産や薄利多売といった売り方はしません。なかには、期待される品質の商品がつくれないなら販売を休止する覚悟でビジネスをしている企業もあります。村上氏も、書こうと思えばもう少し短いインターバルで書けるのかもしれませんが、それを敢えてしていません。期待を裏切らないクオリティを保つためには相応の時間が必要なのでしょう。老舗がじっくりと丹精込めて作った商品は、価格帯にかかわらず顧客は心理的抵抗を持たずに買い求める傾向があります。これは村上氏の作品に期待する読者の心理に通じるものがあると思います」(同)

 小説は1冊の価格は決して高すぎることはないが、「小説の読破」という消費には多くの時間を要する。その分、消費自体を喚起するハードルは他の趣味の分野よりも高いといえる。しかし、「村上作品だから大丈夫」と思う多くの愛読者がいるからこそ、最新刊もベストセラーとなっているのだろう。他方、村上氏の製作の姿勢から、小規模事業者が学ぶべきマーケティングのヒントがあると有馬氏は言う。

●村上氏に学ぶ小規模事業者の哲学

「村上氏もある意味で小規模事業者といえます。今でこそ、ビッグネームとなり、大量販売が期待できますが、ここに至るまでには相応の時間を要しました。これまでの丁寧な作品作りの姿勢は、一人一人の読者を大切に考えてのことだと推測できます。一般的な事業で大きな市場を狙うのではなく、限られた既存顧客を大切にしていくマーケティングを『リレーションシップ・マーケティング』といいますが、顧客を裏切らずに長期間信用を積み上げていく姿勢は、競争が激しい時代であっても忘れてはならないビジネスの哲学といえるでしょう。村上氏の作品作りの姿勢からも、そうした方針を読み取ることができます」(同)

 自ら起業しようという高い志を持った人も少なくないだろう。もし小規模事業主として成功したいのであれば、地道な努力を積み重ねたうえで、長く愛顧してくれる顧客を大切にする姿勢を忘れずに持ち続けることが重要だといえるであろう。
(解説=有馬賢治/立教大学経営学部教授、構成=A4studio)