村上春樹『騎士団長殺し』(新潮社)

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 2月に刊行された村上春樹の書き下ろし長編『騎士団長殺し』(新潮社)をめぐって、なにやら極右陣営がピーピー騒いでいる。もちろん「さすが春樹の新作、面白かったアッパレ!」とかそういうことではなく、どうも、『騎士団長殺し』にチョロっとだけ出てくる南京事件についての記述が気に食わないようだ。たとえば、作家の百田尚樹センセイは、ツイッターでこう連投している。

〈村上春樹氏の新刊『騎士団長殺し』の中に、「日本軍は南京で大虐殺をした」という文章があるらしい。これでまた彼の本は中国でベストセラーになるね。
中国は日本の誇る大作家も「南京大虐殺」を認めているということを世界に広めるためにも、村上氏にノーベル賞を取らせようと応援するかもしれない。〉
〈僕も小説の中で、「日本軍は南京大虐殺をした!」と書けば、中国で本が売れるようになるかな(^^)〉
〈中国で本を売りたいのか、あるいは中国の後押しでノーベル賞が欲しいのか、それとも単なるバカか。〉

いちおう自分も作家の看板を掲げてるくせに「あるらしい」という伝聞で騒ぎ立てる百田センセイのネトウヨぶりにいまさら驚くわけではないが、念のため『騎士団長殺し』のなかの記述を引用しておく。

 連中が騒いでいるのは、肖像画家である主人公「私」のもとに「免色」という人物から電話がかかってくる場面。免色は「私」の美大時代の友人の父親である日本画家についての情報を与えるのだが、そのなかで1938年の時代背景を語る。

〈「日本の歴史に目を向けても、その前後にはいくつかの重要な事件が持ち上がっています。いくつかの致命的な、破局に向けて後戻りすることのできない出来事が。思い当たることはありますか?」
(略)
「盧溝橋事件があったのはその年でしたっけ?」と私は言った。
「それは前の年です」と免色は言った。「一九三七年七月七日に盧溝橋事件が起こり、それをきっかけに日本と中国の戦争が本格化していきます。そしてその年の十二月にはそこから派生した重要な出来事が起こります」
 その年の十二月に何があったか?
「南京入城」と私は言った。
「そうです。いわゆる南京虐殺事件です。日本軍が激しい戦闘の末に南京市内を占領し、そこで大量の殺人がおこなわれました。戦闘に関連した殺人があり、戦闘が終わったあとの殺人がありました。日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、降伏した兵隊や市民の大方を殺害してしまいました。正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが、とにかくおびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます。しかし四十万人と十万人の違いはいったいどこにあるのでしょう?」
 もちろん私にもそんなことはわからない。〉

 いや、まったくの近代史的な概略の記述で、全然イデオロギーを感じないとしか言いようがないのだが、しかし、この「南京虐殺事件」という言葉に反応したネット右翼たちは、またぞろ〈村上春樹は反日極左ですね。本を売るため支那朝鮮に媚びます〉〈村上春樹って反日の帰化在日でしょう〉〈村上春樹を不買運動しよう!〉などと喚き散らしているというわけだ。

 毎度のことながら、そのヒステリックぶりに嫌気がさす。しかし、これが全然笑い話ではないのは、こうしたネトウヨの声を拾った産経新聞が「村上春樹さん新作、『南京事件』犠牲者『四十万人というものも』で波紋」なる記事を公開(3月7日付電子版)。ここぞとばかりに参戦してきたことである。

〈南京事件の犠牲者数について中国側は「30万人」と主張。日本では近年の研究でこれが誇大だとの見方が定着しており、「事件」というほどの出来事はなかったとの意見もある。〉
〈ネット上の掲示板にも「中国が主張する30万人より多い」「根拠を示して」といった書き込みが相次いだ。〉
〈立命館大学の北村稔名誉教授(中国近現代政治史)は「死者40万人の根拠が何なのかは分からない。小説の中の一登場人物のセリフではあるが、村上さんが世界的権威のある作家だけに、今後、中国側がこのことを針小棒大に政治利用してくる恐れもある」と懸念する。〉

 一応もう一度確認しておくが、作中の登場人物のセリフは「(南京事件の)中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます」というもので、別に断定していない。ところが、産経新聞は「40万人」という数字を取り上げて、「中国の言い分より多い!」「捏造だ!」「プロパガンダだ!」「根拠を出せ!」とがなりたてているわけである。

 アホらしい。そもそも、市民や捕虜に対する虐殺が行われたのは日本政府も認めている事実だ。そして、作中でも「四十万人と十万人の違いはいったいどこにあるのでしょう?」と疑問が呈されているように、また、昨年逝去した三笠宮崇仁親王もかつて「辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません」と語っていたように、常識的に考えても「10万人ならば虐殺ではない」などとは決して言えないのだ。

 そのうえで、産経に教えておいてやるが、作中の「四十万人というものもいれば」という部分の根拠がどこにあるかというと、そのひとつは、他ならぬ御社の記事なのである。実は産経はかつて、南京攻略後の日本兵の行動をこのように報じていた。

〈日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除したあと、長行(揚子江)岸に整列させ、これに機銃掃射を浴びせて皆殺しにした。
 虐殺の対象は軍隊だけでなく、一般の婦女子にも及んだ。〉
〈こうした戦闘員・非戦闘員、老若男女を問わない大量虐殺は二カ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。〉

 これは、当時の「サンケイ新聞」1976年6月23日付に掲載された、連載記事「蔣介石秘録」第497回のなかにある記述だ。74年から76年まで計666回にわたって長期連載されたシリーズで、のちに同名で書籍化、サンケイ新聞社(当時)から刊行されている。執筆したのは産経新聞論説副委員長もつとめた古屋奎二氏だ。

 おいおい、誰がどう見ても、「犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ」とはっきり書いてあるではないか。

 ようするに産経は、「40万人なんて嘘だ!」と叫ぶネトウヨに便乗して、南京事件自体をなかったことにしたいのが見え見えだが、実際には『騎士団長殺し』に出てくる「四十万人というものもいれば」と、まったく同じことを自分たちで言っていたのである。それを頰かむりして〈「根拠を示して」といった書き込みが相次いだ〉とは、白々しいにもほどがある。

 繰り返すが、本サイトは南京事件と呼ばれる日本軍の戦争犯罪について、その犠牲者数の多寡は本質的な問題ではないと考えている。ただ、こうして産経が、「"虐殺○○人説"は中国のプロパガンダだから南京事件はなかった!」などと何度でも同じ手口を振りかざすのならば、こちらもその都度産経の報道を振り返ってやらねばならないだろう。なにより、いまの産経新聞が安倍政権や極右歴史修正主義の広報紙となっている事実を、善良な読者に周知させるためにもだ。

 それからもうひとつ、最近の産経ニュースは、安倍首相を野党が追及したときに「民進党にブーメラン」「見事なブーメラン」「ブーメラン現象」「2日連続のブーメランを被弾」などとやたら連呼している(西城秀樹か!?)。これは、相手に投げかけた追及や批判が自分に戻ってくることを比喩したスラングだが、少なくとも産経新聞にそんなことを言う資格は、これっぽっちもない。そう最後に念を押しておきたい。
(宮島みつや)