五輪同一大会で2階級を制した唯一の柔道家、ウイリエム・ルスカ。プロレス界に転身してからも「その強さとパワーは随一」との証言は多い。
 そんな“赤鬼”ルスカにとって最高の名勝負とされるのが、1976年(昭和51年)2月6日、転向初戦となったアントニオ猪木との格闘技世界一決定戦であった。

 柔道経験のある日本人プロレスラーは多いものの、トップクラスからの転身は意外と少ない。
 全日本13連覇の木村政彦、やはり全日本覇者の坂口征二、世界選手権覇者で五輪銀の小川直也。あとは代表候補まで広げても武藤敬司ぐらいのもので、女子でも各時代を代表するような実績を持つ選手となると、神取忍や薮下めぐみなど数えるほどしかいない。

 ほかの格闘競技を見ると、レスリングからは五輪代表だけでもマサ斎藤、ジャンボ鶴田、長州力、谷津嘉章、馳浩、中西学、本田多聞らが名を連ねる。ちなみに日本における柔道の競技人口が'15年時点で約16万人。レスリングは男女合わせて1万人弱といわれている。
 さらに競技人口の少ない相撲界からも、東富士、輪島大士、双羽黒(北尾光司)、曙と4人もの横綱がプロレス界入りし、さらに力道山、天龍源一郎をはじめ数多くのレスラーが相撲からの転身組である。

 柔道からは吉田秀彦や石井慧、瀧本誠ら金メダリストが、全盛時の総合格闘技に進出しているものの、やはり競技人口からの比率でいうと多くはない。
 「柔道の場合、社会人になってからも実業団や警察などで競技続行の道が用意されているし、トップクラスともなれば引退後も指導者として引く手あまた。わざわざプロレスなどの不安定な道を選ぶ必要がない。年寄株を取得できなければ、ちゃんこ屋ぐらいしか道のない相撲とはわけが違います。また、他競技への出場に寛容なレスリングとは違って、柔道一筋であることを求める協会の保守的な体質も、一流選手がプロに転向するための障壁となっています」(スポーツ紙記者)

 柔道史上で最強ともいわれる木村政彦が力道山の踏み台にされたことで、柔道家にとってプロレスのイメージが悪いというのも理由の一つとしてありそうだ。では、他国の事情はどうか。
 日本以上の柔道大国で競技人口50万人以上ともいわれるフランスの場合、法律で総合格闘技やプロレスが禁じられていることもあって、ジェロム・レ・バンナが少年時代に柔道経験があるというぐらい。
 他国の主だったところでは、アントン・ヘーシンク(オランダ出身、'64年東京五輪で金、全日本プロレス参戦)、ウイリエム・ルスカ(オランダ出身、'72年ミュンヘン五輪で金、新日本プロレス参戦)、ショータ・チョチョシビリ(旧ソ連出身、'72年ミュンヘン五輪で金、新日参戦)、バッドニュース・アレン(アメリカ出身、'76年モントリオール五輪で銅、新日ほかに参戦)、グレゴリー・ベリチェフ(旧ソ連出身、'87年の世界選手権で金、FMW参戦)、ダヴィド・ハハレイシビリ(ジョージア出身、'92年バルセロナ五輪で小川を破って金、リングス参戦)などがいる('72年ミュンヘンはルスカが93キロ超級と無差別級の二冠。チョチョシビリは93キロ以下級で優勝)。

 この中ではオランダの金メダリスト2人のプロレス入りが目につく。
 「今では柔道人口約6万人ともいわれ、人口比率でいえば日本以上の柔道大国となったオランダですが(オランダの人口は約1600万人)、へーシンクやルスカの頃はまだマイナー競技にすぎなかった。そのため、柔道師範としての稼ぎ口も少なく、2人ともやむを得ずのプロレス入りだったわけです」(同)

 それでも初の五輪頂点に立ったヘーシンクはオランダ国内での評価が高く、幹部指導者として将来も開けていたという。それを日本テレビが全日中継の視聴率アップ目当てでスカウトした、いわばVIP待遇であったが、対してルスカは事情が異なった。
 へーシンクとの対立関係からオランダ柔道界においては傍流に追いやられ、病気の妻を抱えていたこともあって生活に困窮。青少年を指導する一方、夜の街で“用心棒”を務めたりもした。
 売春や大麻が合法の国際的ナイトスポット、アムステルダムを抱えるオランダにおいて、用心棒という職業は日本でイメージするほどアンダーグラウンドなものではないが、それでも五輪の柔道二冠王者にとってふさわしい職業とは言い難い。
 歴代でも屈指の強豪柔道家が、4カ月後にモハメド・アリ戦を控えたアントニオ猪木の引き立て役を受けたのは、複雑な事情があってのことだった。

 そうして挑んだ初めてのプロのリングにおいて、ルスカは持ち前のパワフルさを発揮し、猪木の格闘技戦の中でも最上級の名勝負を繰り広げてみせた。
 その後、プロレスに本格参戦してからの適応はいま一つであったが、しかし、それはルスカの強さを存分に発揮できるだけの相手に恵まれなかったゆえのことだったかもしれない。