胆石の手術後に除去した石を公開する藤波

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 椎間板ヘルニアで地獄を見た藤波辰爾にとって453日ぶりの復帰戦。医師からのストップを振り切り1990年9月30日、横浜アリーナで越中詩郎と5分1本勝負のエキシビションマッチに挑んだ。リングに上がる2日前、病院で腰のレントゲンを撮った。

 「手術して処置していないからヘルニアは引っ込んでいなかった。多少、炎症が引いているぐらいだった。復帰した横浜アリーナの控室には、何が起こっても対応できるように病院の先生が待機していた」

 痛みが爆発する危険を伴った5分間の復帰戦だった。この日の興行はアントニオ猪木のレスラー生活30周年を記念する大会だった。師匠の記念日でのリング。さらに超満員のファンからのドラゴンコールに胸が熱くなった。

 「ヘルニアは治っていなかったけど、リングに上がって自分としては“いいところに戻ってきた”と感じた。それと、何より支えてくれた女房がほっとしていたと思う」

 横浜アリーナから1か月後の10月25日、群馬・前橋グリーンドームで本格的な復帰戦を行った。試合は、越中と組んで宿命のライバル、長州力とアニマル浜口と戦った。この試合を機に試合数を増やし年末のシリーズはフル参戦した。

 「ヘルニアを抱えているわけだから、復帰してからは、ずっとリングに上がる時は痛み止めの座薬を使っていた。痛みは完全に取れないけど、座薬は一番、早く効くしある程度の動きができるようになる。本来は、あまりやっちゃいけないことだったかもしれない。ただ、使った量はすごいだろうね」

 ヘルニアを治したのは脊柱管狭窄(きょうさく)症の手術を行った2年前の2015年9月。89年7月の長期欠場からこの時まで26年間もヘルニアを抱えながら座薬で痛みを抑えて試合を行っていたのだ。「プロレスが好き」という情熱の賜物だろう。一方で当時は、ヘルニアだけではなく胆石も抱えていた。

 「手術をすれば、良かったかもしれないけど、あのころは、とにかくメスを入れることにこだわっていた。当時は開腹するしか手術の方法はなかったから、おなかを切って後が残ってしまうのを避けたかった。ただ、痛みはきつかった。前触れがあって“あぁこれは胆石の痛みだな”と分かる。試合でも痛みが来るなと分かる。発作が来ると体が硬直して動けなくなる。巡業先でも発作が来ると会場に最寄りの病院へ行って痛み止めを打ってもらった。今となってはバカなことをしたなと思うけど、その時はそれが最善だと思っていた」

 胆石は最初の発見から13年を経た2004年1月に腹腔鏡手術で胆のうを全摘出した。

 「あれだけ悩まされていた胆石だったけど、内視鏡で取ったらこんなに簡単にできるのかと思った」

 ケガと病気と戦いながらの復帰だったが、リング上では最前線のメインイベントに戻った。体調を考えれば、もっと楽な立場で試合を続けることも選択肢にはあったかもしれない。それをさせなかったのが、マッチメイカーを務めていた長州だった。

 「長州は現場監督として自分の気性を分かっていた。あの時、彼から“もっと楽な試合を組んでおいたよ”とか“下のところで試合をしたら”と言われたら、自分のプライドが許さなかったと思う。そういう試合を長州はさせなかった」

 宿命のライバルは、体を張って藤波のプライドを奮い立たせた。復帰からわずか3か月の12月26日、静岡・浜松アリーナで長州は、自身が持つIWGPヘビー級王座に藤波が挑戦するタイトルマッチを組んだ。2年半ぶりの一騎打ちは藤波が勝利。王座を返上した89年4月以来、1年8か月ぶりのベルト奪還で名実共に新日本のど真ん中に戻った。

 「これは、今だから言えることだけど、長州も“今、第一線にいられるのは、あの後楽園でのわがままを藤波が受け止めてくれたから”という気持ちがあったと思う。それとレスラーとして張り合う相手がいなければ、いけないという部分もあったと思う。だからこそ、長州は変な試合を自分にやらせたくなかったと思う」

 長州は、さらに藤波に大舞台を与えた。91年3月21日、東京ドーム。メインイベントでリック・フレアーとのIWGPとNWA世界ヘビー級のダブルタイトル戦を組んだ。藤波は、勝利した。

 「長州は、ドームでのフレアー戦とか大きな試合の時に“辰つぁんいけるか。腰大丈夫いける”って聞いてくれた。こっちも目玉の試合だから長州が望んでいることが分かる。そこは、あうんの呼吸だった。こういう試合に挑むことで気持ちは上向いていった」

 長州と藤波。両雄が君臨していたこの時、次世代の3人が台頭してきた。(敬称略)