ブンデスリーガ時代にケルン、ブレーメンなどでプレーした奥寺氏【写真:Getty Images】

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奥寺康彦の才能を認め、欧州進出の道を切り拓いたバイスバイラーの金言

「おまえは箸が使える。右も左も蹴れる。ほとんどのドイツ人は利き足しか使えないぞ。スピードもあり、器用なんだから、もっと積極的にプレーをしろ」―ヘネス・バイスバイラーが奥寺康彦を鼓舞した言葉

 へネス・バイスバイラーは、1970年代の西ドイツ(当時)を代表する名将だった。ボルシア・メンヘングラードバッハを3度ブンデスリーガ制覇に導くと、1975年にスペインのFCバルセロナへと引き抜かれ、76年からは再び西ドイツへ戻り、1FCケルンの指揮官に就任した。

 バイスバイラーは同じ頃に、日本代表監督を務めていた二宮寛と昵懇(じっこん)で、二人はことあるごとに当時アマチュアで低迷中だった日本サッカーの打開策について話し合った。そこで実現したのが、日本代表の西ドイツでの分散合宿だった。

 日本代表選手たちを3つのクラブのトレーニングに参加させる試みで、二宮氏は特にプロの可能性を秘めた選手を、バイスバイラーが指揮を執るケルンの合宿に参加させた。

 奥寺康彦を筆頭に、西野朗(現日本サッカー協会技術委員長)や金田喜稔ら5人が参加し、そのなかで奥寺がバイスバイラーの目に止まり、直々にオファーを受けるのだ。

成功へのネックは自他ともに認める「引っ込み思案の性格」

 当時の奥寺は、パルメイラス留学を経て急成長中だった。ただし成功へのネックとなったのが、自他ともに認める「引っ込み思案の性格」だった。

 当時アマチュアの日本は、アジアでも勝てない時代が続いていた。それに対し西ドイツは、1974年に自国開催のワールドカップを制している。欧州におけるブンデスリーガの水準は今よりも高く、外国籍選手枠も限られていた。そんな時代にアジアの弱小国から、世界最強国のトップクラブに誘われたのだ。奥寺本人はもちろん、橋渡しをした二宮も大きな責任を感じていたので、何度もバイスバイラーに確認している。

「本当に通用するのか?」

 バイスバイラーは答えた。

「私の眼に間違いはない。プレーの能力には、まったく問題がない。課題があるとすれば、自分を積極的にアピールしていく姿勢だ。そこを克服できれば、必ず成功する」

 だからバイスバイラーは、繰り返し冒頭の言葉で奥寺を鼓舞して来た。

本来は右利きの奥寺が獲得した、左利きのトレードマーク

 そして奥寺は、プロ初のシーズンとなった1977-78シーズンに国内二冠の獲得に貢献し、ブンデスリーガ1部で9年間もプレーを続けることになるのだ。

 奥寺のトレードマークは、強烈な左足のシュートやスピードに乗ったドリブルからのクロスだった。だが本来は右利きの選手だった。

 スピード、器用さを備え、あとは積極性を表現できれば成功する――。

 バイスバイラーは、この頃から見事に日本人選手の特徴を見抜いていた。この言葉は今の日本人選手たちにも、そのまま適用できるアドバイスである。

(文中敬称略)

◇加部究(かべ・きわむ)
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。