「尾去沢銅山事件」と 免れない「井上馨」の罪

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江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当にそうなのか?
ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。
『三流の維新 一流の江戸』が話題の著者に、「井上馨の罪」について聞いた。

御親兵を主導した西郷

 明治四(1871)年、薩摩、長州、土佐三藩が兵を差し出し、「御親兵(ごしんぺい)」が成立した。
 これを主導したのが西郷である。
 新政府が新たな施策に着手できたのは、背景にこの武力があったからであり、特に“第二のクーデター”といわれる「廃藩置県」が断行できたのも、新政府が八千名のこの軍事力をもっていたからである。

 御親兵は、明治五(1872)年に「近衛兵」とその名を変えたが、一貫して中核を為していたのは薩摩兵であった。
 中世以来の独立圏薩摩という風土で郷中(ごじゅう)教育の躾(しつけ)を受けて育った薩摩兵は、郷党意識、団結力、平たくいえば仲間意識が非常に強いといわれている。

 彼らは、軍隊についても新しい組織を創らなければならない立場の西郷にとって、次第に厄介な難物にもなっていたのだ。
 西郷は、既に近衛兵の解散を考えていたようだ。つまり、「徴兵制」の導入を企図したものと考えられる。

 西郷は、山縣を陸軍大輔に専念させることとし、自らが陸軍元帥・近衛都督に就任することによって山縣を救ったのである。
 山城屋和助は、急遽パリから呼び戻されたが、既に返済能力もなく、証拠書類をすべて焼き払った上で、明治五(1872)年十一月二十九日、陸軍省内の一室で割腹自殺を遂げた。

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