(野上 撮影)

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 東京の人口は、現在1300万人余り。ニューヨークと共に世界で最も人口の集中する都市となったが、旧くは江戸と呼ばれ、寂れた東の最果ての地でしかなかった。

 この江戸の地を劇的に変えたのは、太閤秀吉によって三河、駿河、遠江、甲斐、南信濃、の所領から、後北条氏の関八州に国替えを命じられた徳川家康である。

 若い頃から人質に出され、苦労を重ねてきた家康が府に入り、まず着手したのが江戸城に流れ込む平川に神田川の切り通しを設けて隅田川に水を流す土木工事だ。これが後々の幕閣により利根川の流れを東に変えて氾濫を防ぐ灌漑事業の「利根川の東遷」にまで発展した。

 この事業によって、栗橋から江戸湾に流れ込んでいた利根川の水が、徐々に東に流れを変え、銚子沖を経て太平洋に流れ込むようになった。これにより内陸の農業生産が向上しただけでなく、水利を生かした運搬が盛んになったことから河岸ができ、全国から物資が集まる経済都市へと発展した。

 家康が構えた江戸城の周辺には重臣幕閣の上屋敷が軒を連ねるように築かれ、さらにその周辺には大名屋敷、寺社仏閣、江戸の経済活動を支える町方の平長屋も増えていった。

 江戸の人口が100万人を越えた享保の頃、町方だけでなく、参勤交代で江戸詰めになった武士の中にも独身の者が増え、外食産業が生じた。「寿司」「鰻」などの高級食とは一線を画する「蕎麦」が庶民に愛される手軽なファストフードとなった。

 蕎麦は、米が上手く生育できない寒冷な地でも採れる貴重な食糧として、真田一族の本拠地である信濃などでは、蕎麦粉を湯で練った「蕎麦がき」として以前から食されていた。

 蕎麦は、炭水化物の他にビタミンB群やルチンなど血管を丈夫にする栄養素も豊富に含まれおり、古くから長寿食として親しまれ、今でも市井の蕎麦屋が「長寿庵」と号して、蕎麦湯とともに供しているのをよく見かける。

 この「蕎麦がき」が、鰹出汁でとった醤油味のスープに細く切ったヌードル状の蕎麦を浮かべた現在の「蕎麦切り」のような形になったのは、発祥がままならないまでも、物資の安定供給を保障する水路が整備された江戸時代中期頃であったはずである。

 蕎麦一杯は、江戸時代初期には6〜8文、中期には12〜14文と現在の貨幣価値で換算しても300円足らずで食べる事が出来たため、大工等の年収20両〜30両(200万円〜300万円)程度の庶民の懐にも優しい味方であった。

 現在の蕎麦は、店屋物で頼む「年越し蕎麦」だけでなく、サラリーマン戦士が早朝にかき込む「駅そば」、更にはお湯を入れて三分でできる「カップ麺の蕎麦」等、現在では形が様々に変化したが、落語の「時そば」に見られる様に、日本の庶民、殊に関東の人々にとっては江戸時代から続く300年の伝統の味なのである。

(武蔵)