北朝鮮の金正恩党委員長の異母兄である金正男(キム・ジョンナム)氏が暗殺されて一ヶ月が経った。マレーシア警察の捜査によって、金正男という人物が猛毒の神経剤であるVXによって暗殺されたことは既に明らかにされた。一方、北朝鮮が犯行に関与したという点では捜査が進まずこう着状態になっている。

筆者は北朝鮮が暗殺を企画、実行したと見ている。では、なぜ政治的に影響力がない金正男氏を暗殺しなければならなかったのか。

死刑囚は鬼の形相で

韓国政府などは、脱北者による北朝鮮亡命政府の構想が浮上し、指導者として金正男氏や金正恩氏の叔父の金平日(キム・ピョンイル)駐チェコ大使の名前が挙がったことを挙げる。こうした動きは金正恩氏を刺激したかもしれないが、暗殺の直接の動機としては、違和感を感じざるをえない。

韓国入りした脱北者は3万人以上といわれているが、脱北者団体は乱立状態であり、まったくの一枚岩ではない。また、金正男氏がかつては良好な関係を築き、金正恩氏に次ぐ権力をもっていたと言われる張成沢(チャン・ソンテク)氏は2013年に処刑されている。彼以外にも多くの幹部が処刑された。

(参考記事:謎に包まれた北朝鮮「公開処刑」の実態…元執行人が証言「死刑囚は鬼の形相で息絶えた」

金正男氏が今の北朝鮮国内に政治的に大きな影響力を及ぼすということはありえない。なによりも、彼自身が3代世襲に疑問を呈す発言をしており、その人物が旗振り役になれば大義名分でさえ疑われかねない。米韓や周辺国が仮に金正男氏の亡命を受け入れることはあっても、亡命政権の樹立となると対北朝鮮政策という点では極めて厄介なお荷物を抱えることになるだろう。

亡命政権樹立云々のストーリーはわかりやすいかもしれないが、これが暗殺の決定的な理由になったと見るにはいささか無理がある。

見せしめで公開処刑

筆者は、金正男氏が国際空港という衆人環視の環境で、目立つような形で暗殺が決行されたという点に注目する。金正恩氏は金正男氏を暗殺する場面を多くの人に見せつけたかったのではなかろうか。

20年前の1997年、金正日総書記は喜び組スキャンダルなどを暴露した金正男氏の母方のいとこにあたる李韓永(イ・ハニョン)氏を暗殺した。この時、韓国に極秘に潜入した工作員が李韓永氏を銃で殺害し、すぐさま北朝鮮に帰国した。つまり暗殺事件はまんまと成功したのだ。事件が北朝鮮工作員の仕業によるものと明らかになるのはしばらく経ってからである。

今回の暗殺現場となった空港は、わざわざ選ばれたものだろう。事件に関与したと見られる人物が、事前に空港に監視カメラの作動を問い合わせていたという情報もある。仮に作動していることを事前に知っており、殺害の瞬間が捕らえられたとしても、十分に逃げ切る自信があったと見られる。そして、世界にニュースが配信されることを前提にして金正男氏を暗殺したのだ。まさに、見せしめ、公開処刑と言っても過言ではない。

朝鮮労働党の幹部や、朝鮮人民軍のトップでさえ、見せしめとして残虐な方法で処刑してきた金正恩氏が考えそうなことである。さらに、それに加えて金正恩氏の異母兄に対する積もり積もった歪んだ憎悪が感じ取れる。

金正恩氏は、後継者として公式登場した直後から建国の父であり祖父の金日成主席を模倣してきた。北朝鮮で依然として人気の高い祖父の威光にあやかろうとした。ここで興味深いエピソードがある。金正恩氏が目指すべき人物である金日成氏がもっとも可愛がったのは実は初孫である金正男氏だった。金日成氏は金正男氏を目に入れても痛くないほど可愛がった。

しかし、金日成氏は金正恩氏と会おうとすらしなかったと言われている。理由は、実母の高ヨンヒ氏の出身成分(身分)に問題があった。高ヨンヒ氏は1960年代に日本から帰国した元在日朝鮮人であり、他の多くの帰国者と同じく出身成分で最下層に分類された。それゆえに金日成氏は高ヨンヒ氏と彼女から産まれた孫らの存在を好ましく思っていなかったという。

自分が模倣し目指すべき祖父・金日成氏が最も愛したのが母親違いの兄である金正男氏。そして自分は帰国者の子として忌み嫌われ見向きもされなかった。ただでさえ出身成分が低い元在日朝鮮人の帰国者の息子として蔑まされるかもしれないというコンプレックスを抱えた金正恩氏が、金正男氏をこの世から目に見える形で消し去りたいという歪んだ感情を抱いたとしても決しておかしくない。

北朝鮮ではこれまで、最高指導者の地位をめぐっていくつかの権力争いがおきた。金正日氏は、父・金日成氏の弟、つまり叔父の金英柱(キム・ヨンジュ)氏、そして母親違いの弟である金平日(キム・ピョンイル)氏との後継者争いに勝利し、最高指導者に登り詰めた。金正日氏と金平日氏との後継者争いは、母親違いという点で金正男氏と金正恩氏の争いにも通じるものがある。

ただし、いずれの後継者争いにも勝利した金正日氏は、二人に手をかけることはなかった。金英柱氏は権力こそないものの最高人民会議常任委員会名誉副委員長として生存している。金平日氏は、北朝鮮にいることはできないが、海外で大使として健在だ。さすがに金日成氏の血を引く身内にまで手を出せなかったのだろう。

しかし、金正恩氏は北朝鮮の権力闘争史上、はじめて金日成氏の血を引く身内に手をかけるというタブーを犯した。例え白頭の血統を継ぐ者であろうと、自分にとって好ましくない人物、または不安材料になり得る人物を、あたかも公開処刑のような形で消し去る金正恩氏の残虐性はエスカレートする一方である。