『そういう生き物』春見 朔子 集英社

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 どうして生殖行為には快楽がセットになっているのだろうかとずっと不思議だった(というか、今も不思議である)。とか言い出すと、どうしてほとんどの人は異性にしか性欲を感じないかも不思議だ。かといって、すべての人が性的な対象になるというのもそれはそれでややこしそうと思ってしまうが(タフでなければバイセクシャルはつとまらないということかも)。常に自分以外の他者全員と恋愛関係に陥る可能性を秘めつつ生きているとしたら、友情と愛情の境目ってどこにあるのかなと思ったり。

 本書を読んで、改めて恋愛と性別の相関関係とでもいうべきものについて考えさせられた。千景とまゆ子は高校の同級生。長じて千景は薬剤師となり、まゆ子はスナックで勤めるようになった。偶然再会したふたりは、まゆ子が千景の部屋に転がり込む形で一緒に暮らし始める。ふたりの間に何があったのか、彼らの秘めていた過去が少しずつ明らかになる...。

 かつてふたりの間には、間違いなく恋愛愛情が存在していたのだと思いたい。しかし、身体が心を裏切る結果になった。彼らの身に起こったことがどれだけショックだっただろうと思うと、他人事ながら胸が締め付けられる。なぜ心だけでは満たされないのか。なぜ好きだという気持ちだけでは幸せになれないのか。世のほとんどのカップルたちは、自分たちがたまたま相手を好きだという思いと性的な傾向が一致しただけの恵まれた状態にあることなど考えもしないのだろうなと思う。

 しかしながら、10年後に再びめぐり会った千景とまゆ子がたどり着いたのは、戸惑いやわだかまりを越えた境地だった。一度は別れたからこそ穏やかに向き合うことができた、過去に愛した相手。千景はまゆ子について「二十八年の人生の中であの十か月間だけ、自分には今恋人がいるのだと思って生きてきた」と思い、まゆ子は千景について「かわいい、あたしの千景」と思う。

 惹かれ合いながらそれでもふつうの恋人同士にはなれなかったふたりが、お互いを受け入れるにはこれだけの長い時間が必要だったのかもしれない。いわゆる一般的な男女の関係とは違うけれども、これがふたりにとっての幸せのあり方なのだと、他人には支持されなくとも気にしないと、そう思えたのであればいい。

 現在の千景がたぶん憎からず思っているのが、大学を退官した「先生」だ。「先生」には孫がいて、名前を央佑という。彼は小学校高学年で、千景とはもともと顔見知り。母親に捨てるよう言われたカタツムリを預かってほしいと千景を頼ってきた縁で、まゆ子とも出会った。学校の同級生とはうまくつきあえないのだけれど、物事の本質を鋭く突くような子どもである(あ、違うか、"だから"同級生になじめないのかも)。誰もが央佑のように偏見や先入観と一線を画したものの見方ができればいいのに。彼の存在がこの小説に奇妙なバランスをもたらしたと感じる。

 本書は第40回すばる文学賞受賞作。著者の春見朔子さんは千景と同じく薬剤師として働いておられるそうだ。子どもの頃に、"テレビに出ていた人が「見た目は男だけど心は女なのよ」と言っているのを見て、「心は女ってどういうことだろう」と思った"とのこと。その違和感が独特のアプローチとなって『そういう生き物』にいかされているようだ。このところすばる系の文学賞では期待の新人作家が続々と輩出されているので(個人的な好みとしては特に、すばる文学賞→奥田亜希子、小説すばる新人賞→渡辺優・青羽悠など)、春見さんにも大いに期待。

(松井ゆかり)