短期連載・Jリーグ25年目の「希望」
ベルマーレに『フジタ』が戻ってきた(3)

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 2017年、ベルマーレは連勝でスタートを切った。

 とはいえ、戦いの舞台はまたしてもJ2だ。2009年、フジタの撤退から10年かけてJ1昇格を果たしたものの、翌年はJ1最下位で、あっという間にJ2へ逆戻り。その後、2013年に再昇格したが、やっぱり1年で降格。要するに、J1とJ2を行ったり来たりするシーズンが続いているのだ。

 それでも、一昨年と昨年は2年連続で、J1で戦った。初めての残留はベルマーレのスタンダードをワンランク上げた。そして、「湘南スタイル」と呼ばれるサッカーの好感度の高さが、チームを取り巻く人々の気持ちをポジティブにさせている。

 クラブも前進した。「生き残りへの挑戦」は苦闘の連続だったが、そんな時間によってクラブは強くなった。存続運動を機にベルマーレへの関心が強まり、地元との絆もできた。

 台所事情はいまも潤沢とは言えない。それでも、昨季の観客動員は1万人を超えた(1試合平均)。年間予算は15億円程度へ、社員も20人と、18年前と比べれば、すべてがほぼ倍増している。

 チーム同様、クラブの印象もやはり明るい。

 そんなベルマーレに、今季、かつての親会社である『フジタ』がスポンサーとして戻ってきたのだ。

 そのコントラストがあまりに鮮明だからだろう、18年前の印象を問うと「暗黒」と、まったく同じ言葉がふたりの口から飛び出した。遠藤直敏と雲出哲也である。

 遠藤はクラブ最古参。いまやフジタ入社の唯一の社員だ。

「J1に上がるまでは暗黒時代というか、上しか見てなくて、語り合って、走り続けていた感じ。事務所が不夜城と呼ばれいて」

 一方、雲出はベルマーレ平塚としての入社第1号。1994年、チームがJリーグに昇格する際に採用され、営業部に配属された。

「当時はスポンサーやサプライヤーが、僕らが営業しなくてもフジタの関係で手に入っていたんです。撤退してから、そのありがたみがわかった。それからの10年は……二度とJ1になんか上がれないんじゃないか、という暗黒の気分でしたね」

 だからこそ、フジタへの感謝も身に染みている。

「借金ゼロで、2億4100万円の資本金を残し、グラウンドも使えるようにして……。愛のある撤退ですよ。あれがなかったら、フリューゲルスのように消滅している。今回もスポンサーとして戻ってくれて。そんな”親”をがっかりさせないようにしなければいけません」

 遠藤はいまも中国地方でのアウェーゲームの際に、広島にいる重松良典(ベルマーレ平塚元社長)のもとを訪ね続けている。

「ベルマーレを存続させるために、あのとき一番苦労したのは重松さんだと思っているんです。だから、毎年顔を出すようにしています。特に今年はこのユニホームを必ず届けないと」

 もちろん『FUJITA』のロゴの入ったユニホームである。

 今季ホーム開幕戦のスタンドには、懐かしい顔もあった。ベルマーレ平塚時代に広報を務めていた寿原英樹だ。

 当時はフジタからの出向。古前田充とは同期入社で、経理部で机を並べていた。寿原も大学の同好会でボールを蹴っていたこともあって、ふたりはすぐに意気投合。ついでに言えば、ともにアルコールを浴びるタイプ。終電を逃せば、練習場のプレハブを”グランドホテル”と称して泊まった仲でもある。

「もう、うれしくて、うれしくて」

 そう繰り返す笑みは満面に広がっていた。フジタのスポンサー復帰がうれしくてたまらないのだ。

 寿原は毎年、開幕戦には当時の仲間を誘って訪れてきた。それでも、これまでは内心複雑だったようだ。

「実は、心苦しさもあったんだよ。『おまえら、手を引いたくせに』って思われているんじゃないかって。でも、これからは胸を張って来られる。うれしいなぁ、本当によかったなぁ」

 満面の笑みはすでに赤らんで見えた。

「実は……」という思いは、どうやらフジタにもあったらしい。湘南ベルマーレ会長の眞壁潔が明かしてくれた。

「はじめは、発表もリリースもしなくていいと言っていたんだ。撤退した会社が偉そうにできないと固辞されて。説得するのが結構大変だったんだよ」

 フジタの側には、今回のスポンサードを大々的に発表するつもりはなかったというのだ。クラブやサポーターの心情を害するのではないか、という配慮からである。

 もちろん杞憂である。クラブの内にも、外にも、そんな思いを抱いていた者はいない。あったのは、遠藤や雲出が口にしたとおり、感謝である。

 そして、それはサポーターも同じだ。

<再びフジタと共に歩めることをうれしく思います>

 ホーム開幕戦の試合後のゴール裏には、そんな横断幕が掲げられていた。


フジタのスポンサー復帰にサポーターも感謝している

 もうひとつ、フジタの話をしておかなければならない。

 スポンサー契約の発表会見のあと、金子賜(たもう)副社長は「我が社もここまで戻ったということです」と語った。そう、あのときフジタもまた、存続の危機に瀕していたのである。

 ベルマーレへの出向を解かれ、フジタに復帰した寿原は関連会社を整理する仕事にあたった。それが、大きな心労を伴う業務であることは言うまでもない。その過程では金融機関の指導のもと、理不尽な思いをすることもあった。2002年に不採算の不動産部門を切り離す作業を終えるまでの3年間、寿原が過ごした日々もやはり「暗黒」だったに違いない。

 会社分割を区切りとして寿原は退社したが、フジタのサバイバルがそこで終わったわけではない。”親会社”は銀行から外資ファンドへ変わり、それでもなお再建の道は続いた。そんな坂道を不安な面持ちでフジタの社員は歩き続けたのだ。

 大和ハウスグループ傘下に入り、好況の追い風を受けて業績が回復したのはここ数年のこと。その間、苦闘は続いていたのである。

 金子が「ここまで戻った」と言ったのはそういうことだ。この18年、”生き残りをかけた挑戦”を繰り広げてきたのはベルマーレだけではない。ベルマーレを手放したあと、始まったのはフジタのサバイバルでもあったのだ。

 フジタを主語にストーリーを綴り直すなら――それでもフジタは存続した。と結ばれる物語だ。

 かつてフジタの社員でもあった元日本代表GK小島伸幸が感慨深げに話していた。

「今回、まずうれしかったのは、自分が以前いた会社がスポンサードできるくらい業績が戻ったこと。お世話になった人たちもいるからね。そして、ベルマーレも存続していたからこそ、こういう話になった。どちらかがなくなっていたら起こり得ないわけだから」

 そうなのだ。ともに存続の危機に瀕しながら、それでもともに存続し続けたからこそ、再びともに歩むチャンスがやってきた。

 選手たちの左肩にある『FUJITA』のロゴ。それは、ベルマーレとフジタが別々に挑んだ18年間の戦いに勝利した証(あかし)でもあるのだ。

 さらに小島は続けた。

「そして、その両者のつながりが切れてなかったこともうれしいよね。だって藤和不動産があって、フジタがあって、それぞれの時代に関わった人たちがいて、日本リーグの強豪に育て上げたから、ベルマーレがJリーグにいるわけだから」

 改めて時代を俯瞰(ふかん)すれば、藤和不動産サッカー部が創部された1968年は、メキシコ五輪で日本が銅メダルを獲得した年であった。その4年前、東京でオリンピックが開催され、翌年には日本スポーツ界初の全国リーグ「日本サッカーリーグ」が創設。日本サッカーが現代へ向けて歩み始めた時期である。

 日本経済も堅調だった。オリンピック景気があり、いざなぎ景気が続き、そんな高度成長を背景に建設業のフジタも業績を伸ばし、不動産部門を独立。大規模リゾート開発に乗り出したことが、藤和不動産サッカー部を誕生させることになった。

 さらに国内のみならず、海外にも進出したフジタは「南米ならフジタ」と称されるほどの成功を収め、実績を積み重ねていく。そんな事業展開は、セルジオ越後をはじめとするブラジル人選手の獲得にも生かされたはずだ。1990年代の洪明甫(ホン・ミョンボ)の獲得の際にもフジタの助力があったと聞く。

 やがて訪れた変革の時代。プラザ合意、円高、日本サッカーのプロ化検討、バブル、冷戦の終結と昭和の終わり、バブルの崩壊、そしてJリーグ創設、ゼネコン不況……。激変する世界情勢と経済環境の中、建設業にもスポーツ界にも吹き荒れたつむじ風。

 そんな移ろいゆく時代を、フジタが歩み、ベルマーレが引き継ぎ――。

 来年、藤和不動産サッカー部の創部から数えて50周年を迎える。

 そんな節目を祝える幸せ。それぞれに胸を張って、互いを讃え合って。

 横断幕は2枚用意しておきたい。祝50周年、そして……。

 そこにベルマーレのJ1復帰が重なれば――最高の祝勝会になりそうだ。

(おわり)

=敬称略

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