台湾から世界を制した男─「ジャイアント」劉金標会長 最後の教え

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昨年末、そのニュースは世界に報じられた。「ジャイアント」劉金標会長、引退ー。そして、自転車業界最強のブランドを育てた彼は、最後のメッセージを本誌に語った。無名の工場経営者から「Only One」を築いた男が人生で得た奥義とは何か。

その日は、まるで台風のように、強い風が吹いていた。

台湾中部の都市・台中郊外にある大甲地区。近くに広がる台湾の海岸線の先には、中国と台湾を隔てる台湾海峡がある。冬になると、大陸から海を越えて、歩けないほどの強風がしばしば吹き付ける。

その強風のなか、工場と水田が入れ替わる景色を眺めながら車を走らせていくと、目の前に「GIANT」の大きな文字が現れる。世界最大の自転車メーカーであるジャイアントの本社だ。

そこで待っていたのは町工場を世界企業へ育て上げ、このインタビューのわずか5日後には、82歳で44年間守り続けたトップの座を後進に譲った「キング・リュー」こと劉金標だった。キングは劉金標の英語名である。

まぎれもない自転車業界の「キング」なのだが、飄々とした風貌はむしろ「ベテラン工場長」のほうがしっくりくるかもしれない。また、台湾社会では愛情を込めて「標哥(標おじさん)」の愛称で通っている。

創業の地であり、現在も年間およそ100万台に達するハイエンドの自転車を生産する本社兼工場で、劉金標はForbes JAPANの単独インタビューに応じた。引退を控えて日本メディアから受けた唯一のインタビューであり、台湾メディアを含めても現役最後のインタビューとなった。

「長い会社人生ですが、ポストを引き継ぐのは初めて(笑)。引き継ぎのやり方を学んでいます。年寄りがあまり文句を言わないよう、口を出さずに黙って見守っていますが、我慢が必要です。何事も学習。経営者として最後の学習です」

取材の冒頭、そう語って見せた笑顔には、人生をかけて大企業を生み、育てた経営者の満足感が、深く刻まれていた。

劉金標は、日本統治下の台湾で日本語教育を小学校まで受けた世代。日常会話ならば日本語で難なくこなすことができる。今回は中国語でインタビューを行ったが、質疑の合間にも、いくつも日本語の単語が飛び出してくる。

ジャイアントという企業が台湾のメーカーであることも知らない人が多い日本では意外に思われるかもしれないが、世界的な存在感は圧倒的だ。

スポーツタイプの自転車の生産台数は年間550万台で世界のトップ。40年連続の黒字経営。世界14カ国に販売会社を有し、国内外に9つの工場を持つ。総従業員数は1万2000人。自社ブランド「GIANT(捷安特)」を手掛けつつ、有名ブランドの自転車のOEM(請負生産)を「巨大機械工業」として手掛ける。

600億台湾ドルの売り上げの4分の1は米国、4分の1は欧州、4分の1は中国、そして、残りの4分の1は台湾や日本などアジア。理想的ともいえる事業構成。台湾の株式市場に上場する同社株式の半数は外国人投資家所有とされ、経営の良好さを買われてのものだと受け止められている。

ジャイアントの強みは価格と性能のバランスがいい点である。同じ性能でも欧米メーカーなら20万円の自転車が15万円、10万円の自転車なら6万〜7万円で買うことができる。そして、簡単には壊れない。外観の格好よさは欧米メーカーに及ばないが、シンプルで機能的、使いやすい。

自転車というレジャースポーツが、一部のマニアから一般大衆に広がる昨今、高性能のマシンを手頃な価格で、という戦略は、拡大する利用者層をとらえたものだった。

劉金標は一般家庭の出身だったが「何かを成し遂げたい」という、今で言うところの「起業精神」を若い頃から抱いた。小さな工場やウナギの養殖などで失敗を繰り返し、30代半ばをすぎてから自転車作りに出会った。

台湾の人口は2300万人。経済規模も人口規模も一つの大企業を養うホームマーケットがない。サバイバルには常に世界の最新の潮流と向き合わなければならない。「小さいから大きく考える」ことで、弱点を長所に転化する企業経営を、この半世紀近く続けてきたのである。

その劉金標の言葉から、彼の経営観に触れることも少なくない。長い経営者人生から学び取った「金言」といえるもので、なかでも、最も頻繁に耳にするのが次の3つだ。

「未來決定現在(未来が現在を決定する)」
「打仗打在開火前(戦争は攻撃の前に始まっている)」
「與時倶進(時代とともに歩む)」

いずれも、将来を見通す企業経営の大切さを強調するものである。そして、劉金標は社員たちにいつも口を酸っぱくして、こう語りかけるのだ。

「春の鴨になりなさい」

鴨は水面の下の水温から、まだ人の目には見えない春の到来を感じ取るとされる。そんな中華世界の寓意が込められている。

ジャイアントには過去、何度も危機が訪れたと劉金標は振り返る。そのことが、時代の流れを敏感に察し、先手を打つ重要さを認識するきっかけだった。

米国の自転車ブームをあてこんで1970年代初頭に創業したが、当時の台湾には、日本のJIS規格にあたる製品の標準規格がなく、取引先の信頼を得られない状況だった。劉金標は、日本のJIS規格を手に入れ、自力で翻訳しながら、業界の仲間たちに「統一規格を作ろう」と説得して回った。

その甲斐あってようやくOEMが軌道に乗ったが、最大手の取引先である米自転車メーカーが突然、注文をジャイアントら中国の企業に切り替えた。受注の75%をそのメーカーに依存していたため、途端に経営危機に陥った。この当時のことを振り返るとき、劉金標は真顔になり、日本語で「うわき(浮気)されたんです」とつぶやいた。

「取引中止の知らせはたった一枚のファクスでした。目の前が真っ暗になった。でも、取引先の浮気で沈んでしまう企業のままなら、たとえ立ち直ったとしても、また同じ目に遭うに違いないと考えました」

他人頼みのOEM依存からの脱却を決意し、自社ブランドの確立を目指した。多額の資金を投じて、アジアの自転車メーカーとしては異例のツール・ド・フランス参加など世界的なレースにも積極的に打って出た。


2016年10月に開催された「ツール・ド・フランスさいたまクリテリウム」に参加したチーム・ジャイアント

製品にも特色を出した。炭素樹脂(カーボンファイバー)のフレーム開発に着手し、製造機器はドイツ、素材は日本の東レから調達。世界のどこの大手も手掛けていない分野だった。それが名門チーム「オンセ」に採用され、カーボンのボディならジャイアントという名声とともに、軽量化を好む市場のトレンドをつかんだ。いまも東レとは強固なパートナー関係にある。糸の選定から成型まで自社で完結できる生産体制はほかのメーカーの追随を許さない。

このあたりの技術革新を語るときの劉金標は、技術志向の経営者らしく、生き生きとして目が輝き、「してやったり」という表情を浮かべる。

中国が「世界の工場」になる1980年代も、台湾のモノづくりには一つの危機だった。ジャイアントはいち早く上海近郊の昆山に工場を設け、中国でコストの安い自転車を生産するだけではなく、高級自転車の販売網の構築や宣伝に力を注ぎ、巨大な中国市場に足がかりを作ることに主眼を置いた。

当時は、中国の消費者が高級自転車を買うことなど想像できない時代だった。だが、劉金標は「世界の工場」から「世界の市場」になる中国の未来を見越していた。やがて中国経済がテイクオフし、人気ブランドの地位を早々に確立した。今や富裕層や中産階層を中心とする「中国人ユーザー」が経営を支える大きな柱になっている。

対照的なのは日本の自転車産業だ。70年代から80年代にかけて世界を風靡したブリヂストンなど日本の自転車メーカーは、完全に国際競争力を失っている。日本のマーケットのママチャリなど独特の市場にこだわった結果、ハイエンドの自転車の市場や高級車のOEMを台湾勢が確保し、ローエンドのママチャリまで中国勢に奪われる結果に陥ってしまった。

注目すべき数字がある。ジャイアントの自転車輸出価格の推移だ。一台あたりの価格は15年前、100米ドルそこそこだったが、現在は500米ドルに達する。付加価値化への成功を物語っている。日本の自転車は発展途上国への中古品の輸出が主体で、今日でも一台100米ドルにも及ばない。

この状況は、ガラケーにしがみついてアップルやサムスンのスマホに追随できなかった日本の携帯電話製造とも似ている。自国市場にしがみついて世界の潮流に取り残される「日本病」の実態が、ジャイアントという企業を見ているとよくわかるのである。

果敢なチャレンジ精神、一度決めたらやり抜く、という日本人が失いつつある企業マインドも、劉金標とジャイアントから感じることだ。

劉金標は73歳のとき、自転車で台湾を一周する「環島」にチャレンジした。周囲の反対を押し切っての決断だったが、きっかけは一本の映画だった。若者が自転車で台湾一周を行うストーリーなのだが、「いまやらなければ、一生できないことがある」という主人公のセリフに触発されたという。

高齢の経営者による自転車一周は、台湾社会に大きな反響を巻き起こす。自転車ツーリズムの育成を目指す「自転車新文化基金会」を設立し、自らそのトップに就任した。政府に自転車道の整備を働きかけ、台湾はいま国内外から台湾一周の旅に愛好家が殺到する「サイクリングアイランド」となった。

劉金標は、公共自転車シェアリング「YouBike」という新領域にもこの5年ほど、精力を注いできた。台北市で導入に大成功し、環境対策や交通渋滞解消にも役立つことから、ジャイアントが作り上げたシステムに世界各国からオファーが殺到した。劉金標は、引退後もこの仕事には関わり続けるという。

「自転車文化の普及やYouBikeなどのCSRは、ジャイアントというブランドを支える大きな養分になりました。会社をより輝かせる活力になるのです。いまの経営陣に急にバトンを渡しても、経営とCSRの両立はすぐには慣れないでしょう。ここだけはしばらく面倒を見ていきます」

「はまる、はまる……」

インタビューのなかで、劉金標は、記憶を少しずつ紐解くように、窓の外の広大な工場を見つめながら、創業の頃を振り返った。

創業時の社員は38人。小さな町工場だった。ジャイアントの創業まもない1973年、たまたま仕事先で出会った取引先にいた当時24歳の若者に惚れ込んだ。それがトニー・ローこと、羅祥安CEO(取材当時)だ。いまで言うヘッドハントを試みた。職人気質で口数の少ない会長と、スキンヘッドで外交的なCEO。その後、40年にわたって凸凹コンビを組むことになる。

羅祥安は、劉金標の招きで台中の本社を訪ねたときを、こう振り返る。

「駅で新聞を買ったんです。そこに日本のホンダの本田宗一郎社長と藤沢武夫副社長の同時引退のニュースがトップで報じられていました。ホンダは台湾でも有名な会社でしたから。劉さんにその新聞を見せて、『この2人は25年間コンビを組んでホンダを大企業に育てた。私たちも25年後に一緒に引退しましょう』と言ったんです。だから、同時引退は私たちの夢でした」

このことは、劉金標もよく覚えていた。

「ずいぶん思い切ったことを言う若者だと感心しました。それからは私が技術や製造の管理、彼が海外販路の開拓やブランディングで責任を分担してやったんですが、25年後は1990年代で、会社はどんどん成長して、あまりに忙しすぎて忘れていましたが、最後に約束が果たせました」

劉金標は、羅祥安とのコンビがあっての今日のジャイアントがあるということを、繰り返し強調した。羅祥安も、劉金標と同じく12月31日にCEOから退いた。トップ2の一気の退任は大きな波紋を呼んだ。年齢的に上の劉金標から先に身を引き、羅祥安が当面引き継ぐバトンタッチを誰もが予想していたからだ。

しかし、2人は二人三脚を最後まで貫く引き際を見せた。

「下の人間たちが私たちの影に怯えないように、そして、彼らの改革が中途半端にならないようにしたいからです」

自転車業界の「キング」「ゴッドファーザー」などと呼ばれることも多いが、劉金標は「自転車の伝道師と呼んでほしい」と語る。企業のトップが自ら率先して自転車という「文化」を広めてきたからだ。それは、短期的な営業成績を度外視できる創業者だからできる長期戦略でもある。

いい自転車に乗ってさえもらえれば、そのよさに目覚めてもらえる。劉金標はそう考える。5年前に拙著『銀輪の巨人 GIANT』の執筆のため、初めてインタビューしたときのことを思い出す。劉金標は「好きになって離れられなくなることを日本語で何と言いますか」と私に尋ねた。なんとはなしに「はまる、でしょうか」と答えた。劉金標は「はまる」「はまる」とつぶやきながら別の話題に移ったが、それから3年ほどして別の取材の機会で会ったとき、日本人を相手に巧みに「自転車にはまる」を使っているのを見て驚いた。

日本の市場は宝の持ち腐れ

最近、劉金標が「伝道師」として「はめる」ことを狙うのが日本だ。

日本での専売店を10年前の2店舗から昨年末には29店舗に急増させた。さらに年内に60店舗、5年後には200店舗にという野心的なプランを掲げる。出店先も人口集積地ではなく、優れたサイクリングロードのある場所に店舗を出す。そこで地元自治体などと組んで自転車文化を根付かせながら、自らの事業も成長させる作戦を続けており、愛媛県と広島県を結ぶしまなみ海道や琵琶湖一周の「ビワイチ」といったコースで実績を上げている。

劉金標には、日本の自転車市場は「宝の持ち腐れ」に見える。

「日本の自転車人口は世界一です。でも、みんな『移動』のために乗っているのがほとんどで、自転車を楽しんでいない。正直、遅れているように見えます。しかし、遅れていることはマイナスなことではなく、成長する潜在力が非常に大きいこと。体によく、環境によく、レジャーとしても楽しい自転車を、日本のような先進的な文明国はもっと活用できるはずです」

劉金標の経営者人生はいま、美しい句読点を打とうしている。だが、それは劉金標にとっての句読点であり、ジャイアントにとっては句読点ではない。

「会社は永続するべきで、百年企業になるのが望ましい。私は百年の前半を担当した。これからは後継者たちの仕事です」と、劉金標はそう話す。永続させようとするから、将来を鋭く見通す先見性が必要になる。それが劉金標の経営者としてのスタンスである。

「多様化した現代社会です。ビジネスには、マネーゲームもあれば、M&Aもある。でも私にはそんな能力もなければ、意欲もありませんでした。会社をいかに永続させるか。それをいつも考えてきました。会社の永続のためには、いくら稼ぐかは最重要事項ではありません。大切なのは、only oneでいることです。me too(模倣主義)では、いつか淘汰される。企業経営や景気にはサイクルがどうしてもつきまとう。苦しいときもある。失敗もある。しかし、only oneであれば、会社は百年、もっと長く生き残っていけます」

劉金標という経営者の存在こそが、only oneだった。その劉金標が抜けた後のジャイアントがさらに50年、only oneの企業でいられるかどうか。それはひとえに後継者たちが新たな価値を生み出しつつ、「春の鴨たれ」、という創業者の精神を継承できるかどうかにかかっている。

【動画】劉金標氏が現役最後のインタビューで語ったメッセージ──

巨大機械工業(Giant Manufacturing)◎1972年に台湾で自転車部品の製造会社として創業。のちに自社ブランドを確立。性能、技術革新による素材、ファッション性などで世界的な地位を築いた。創業者の劉金標は「自転車文化の伝道師」と呼ばれている。

野嶋 剛◎ジャーナリスト。1968年生まれ。朝日新聞シンガポール支局長、台北支局長、AERA編集部などを経てフリーに。中華圏や東南アジアの問題を中心に執筆活動を行う。『ふたつの故宮博物院』『ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち』『台湾とは何か』著書多数。