さて、前回の表題「揚雲雀」を咄嗟に「あげひばり」と読めないかも、とのご意見を頂戴した。恐縮する次第だが、じつはこの言葉使いは名匠上田敏の筆から滲み出たもので、視覚的な効果も狙った同氏の詩心の横溢とご理解いただけまいか。舞台裏を晒せば、筆者はこの「揚雲雀」の語感にこそ、人間翻訳とAI翻訳を分かつエッセンスあり、と直感しているのだ。

 となれば、ここでこの名詩を改めてご鑑賞いただくのも一興かも知れない。 The year's at the spring       時は春、 And day's at the morn;         日は朝(あした)   Morning's at seven;           朝(あした)は七時、   The hill‐side's dew‐pearled;    片岡(かたをか)に露みちて、 The lark's on the wing;    揚雲雀(あげひばり)なのりいで、 The snail's on the thorn;                 蝸牛(かたつむり)枝に這(は)ひ、 God's in his heaven ―          神、そらに知ろしめす。 All's right with the world!        すべて世は事も無し。(Robert Browning: Pippa passes 上田敏訳:春の朝)

 ご覧のように、原詩はすべての行がs+vi(is)….で一貫しており、そこから見事な韻律が生まれている。雲雀と蝸牛のペアリングが天地の隔たりを想わせる辺りは心憎いまでに美しい。上田敏訳は、雲雀と蝸牛にそれぞれ「揚がる」と「這う」の自動詞を紡ぎ出して、原詩にない臨場感を創りだしている。とくに雲雀は、この鳥の特徴的なさえずりと舞い上がる風情とをバシッと定着させる語感が圧巻だ。

 ところで、筆者はこの詩の上田敏訳を褒め称えるためにこのコラムを書いているのではない。囲碁がAlphaGoの軍門に降ったとき、そして直感的に人間翻訳の行く末に思いを馳せたときに、筆者の脳裏に咄嗟に浮かんだのが上田敏の「揚雲雀」だっただけのことだ。「AIに揚雲雀が発想できるか」。所詮データの精度が命のAIが仮に「心」を獲得したとしても、はたして揚げ雲雀のような情感溢れる語感が浮かぶものか、という素朴な疑問だった。

 閑話休題。 どなたも覚えがおありだと思うが、学校時代の英語は悩ましい科目だった。ローマ字と同じアルファベットを使いながら、日本語とは別世界の構文に戸惑い、意表を突く文法の約束事に難渋しつつ「英語」との取っ組み合いをしたものだ。ついにこれに敗れて英語嫌いになったひと、辛うじて片言の英語を身につけたひと、これに耐えて一角の英語使いになり得たひと、などなど、英語はそれぞれにインパクトを残した科目ではあった。

 そのプロセスで、素材に英詩も登場し散文の名家の作品も引き合いに出されたが、学ぶ側には所詮学習の材料に過ぎず、構文や文法の確度を確かめる手掛かり以上の意味はなかった。たしかに美しい詩の趣を味わう刹那もあり、巧みな散文の流暢を愉しむ一瞬もありはしたが、思えば英語学習は根っこの構文や文法の正確な理解が第一義だった。

 話しを揚雲雀に戻そう。この詩を和訳しようと向き合ったら、The year's at the spring (時は春)、And day's at the morn (日は朝)ときて、やがてThe lark's on the wing(揚雲雀なのりいで)と来る辺りでは、詩の押韻、韻律の美に圧倒されながらも、大方は構文・文法の軛(くびき)から抜けられず、s+vi(is)….のリズムに踊らされてone the wing を「揚がる」「なのりでる」の語感に昇華させることはできまい。だからこそ、上田敏の詩心は抜きん出ているわけだ。原詩の押韻、韻律の美に圧倒されながら、彼はそれを凌ぐかという韻文をわれらが日本語で紡いで見せたのだ。筆者には、これこそ人間翻訳の極致だと思う。

 話しを一歩進めて、AI翻訳ではThe lark is on the wing.は「雲雀は飛んでいる」で足りており、仮に「心」を手に入れたとしても、雲雀のさえずりながら舞い上がる風情を表現するために「揚げ」たり「なのりいで」させるなどは思いも及ばず、その必要もないとしよう。敷衍すれば、「雲雀は飛んでいる」で結構、揚げずともなのりいでずとも結構だというなら、この段階で人間翻訳はAI翻訳の手に掛かって命を落とすことになる。いや誤解しないで欲しい。AI人工頭脳に後れを取らぬために、人間翻訳は「揚げ」たり「なのりいで」など奇をてらった表現を鏤(ちりば)めるべし、と言おうというのではない。

 人間の心的要素に知情意の三つあり、仕分ければ「知」は無機的で「情意」は大いに有機的だ。言い換えれば、知には生命感はなく情意には人間の情感が息づいている。さらに敢えて言えば、AIは知に馴染むが情意には疎く、本来その何れにも長けるべき人間がいま、知の世界でAIに脅かされているという状況だ。

 こうして一つ大きな命題が浮かび上がってくる。本来無機物のAI が「心」や「意志」を身につけて、知の先の情意の世界に立ち込んで人知を脅かすのか。それを恐れてか、このほど人工知能学会が集って、AI研究者が守るべきルールを定めた初の倫理指針をまとめた。勿論、ここでの指針はロボットなどの社会的位置関係を意識してのそれなのだが、言葉の世界でもすでに問題が起きている。マイクロソフトの人工頭脳「Tay」はネット上に流れる不適切な会話を学習した結果、人種差別的な物言いをするようになった、などがそれだ。

 話しを絞ろう。翻訳の世界でも状況は不鮮明で、AI翻訳と人間翻訳の葛藤がどう展開するか、予断を許さない。言えることは、AIの進歩に一喜一憂することでは文化としての翻訳の未来は暗い。AI翻訳は並々ならぬ「使い手」だ。安易な英文和訳、和文英訳に堕する翻訳なら囲碁の二の舞は見えている。知情意豊かな人間翻訳の技を磨くにしくはない。

 翻訳は文化だ。翻訳は二つの言葉の間を右往左往することではない。二つの文化を紡ぎ合わせる芸だ。次回は、AI翻訳を向こうに、二つの言葉を紡ぎ織り上げる技、いわば「二刀流の翻訳」の妙についてお話ししてみたい。(続)

執筆者プロフィール

島村 泰治 (しまむら・やすはる)
翻訳家
http://wyess11.xsrv.jp/main/
戦後10年後にアメリカ留学し、Boise State University、University of Utahを卒業。帰国後は文化自由会議で「自由」誌の編集を担当。駐日ノルウエー大使館で主席通訳/翻訳官、情報分析として20年余勤務し、定年退職。現役時代は英語畑で過ごし、引退後の現在は、傘寿超のもの書きとして、翻訳(和英、英和)、もの書き、原書講読講座主宰、野菜作りに勤しむ晴耕雨読環境に。

一貫して英語を介した仕事が生業で、公務では9割が英語での書き物が多く、ほとんどは翻訳の域を出た分析記事だったことから、現在でもネット上(http://www.zaikeinews.com/)で日本紹介をテーマにNathan Shigaの筆名で発信中。

■ 著作:
○王育徳「台湾:苦悶の歴史」の英訳「Taiwan: A History of Agonies」が台湾から発売されています。
○Kindle本「グローバルエイジのツール 二刀流翻訳術」

■ホームページ
梟の侘び住い: http://wyess11.xsrv.jp/main/