短期連載・Jリーグ25年目の「希望」
ベルマーレに『フジタ』が戻ってきた(1)

 歓声が沸き上がったのは開始10分のことだった。

 左サイドを攻め上がり、ボールを持ち込んだ長身DFが相手守備陣の間を割って入り、そのままシュート。この試合、最初のゴールが生まれたのだ。

 先制点を奪ったのは、湘南ベルマーレ。シーズン開幕戦に続き、このホーム開幕戦でも先手を取った。

 サポーターの拍手が鳴り響く中、得点を決めたルーキーが”先輩たち”から手荒い祝福を受けている。杉岡大暉である。高校を卒業したばかりの18歳。それでも開幕からスタメン起用され、早くもゴールまで決めてみせた。

 歓喜の輪がほどけた向こう側、緑の芝生の先に懐かしいロゴが見えた。白地のスポンサー看板だ。

 そして、弾むように自陣に戻っていくグリーンのユニホームの左袖にも――『FUJITA』の文字が躍っていた――。

 フジタがベルマーレのスポンサーに戻ってきた。


かつての親会社であるフジタがスポンサーとして戻ってきた 撤退は1999年だったから、実に18年ぶり。ちょうどルーキーの人生と同じ時間を経ての”復活”ということになる。

 言うまでもなくJリーグ入り当時の「ベルマーレ平塚」の親会社。それどころか”生みの親”である。

 まずはその歩みを駆け足で振り返ってみよう。

 産声を上げたのは1968年。フジタのグループ会社「藤和不動産サッカー部」として栃木県那須町に誕生した。これが、ベルマーレの源流である。

 この藤和不動産、その第一歩から先駆的だった。まず経営する遊園地の那須ハイランドパーク内に専用練習グラウンドはもちろん、合宿施設などを整備。ヨーロッパのサッカークラブをモデルに環境を整えた。

 監督には当時日本リーグの王者だった東洋工業でプレーし、その後指導者となった黒木芳彦。さらにコーチには、同じく東洋工業から元日本代表の石井義信を迎えてチーム作りを始めたのである。

 当然、強かった。最初のシーズンで栃木県リーグ4部を全勝優勝。翌年には飛び級した県1部リーグでやはり優勝した。そして創部3年目で関東リーグ2位となり、その翌年には関東リーグと全国社会人大会を制して、日本リーグ入りを果たしてしまうのである。

 創部からわずか4年。もちろんノンストップのスピード昇格であった。

 こうした急進的なチーム作りが可能だったのは、社長の藤田正明の存在が大きかったようだ。広島修道高校、早稲田大学と選手として活躍した藤田の知見と思い入れがあったからこそ、先駆的な環境整備も、急進的な強化も可能だったのだ。

 1972年、勇躍日本リーグ入りした藤和不動産だったが、前期は未勝利に終わる(2分5敗)。しかし、進取の精神に富むチームはただでは転ばない。ブラジルの名門、コリンチャンスから”元プロ”を獲得したのだ。あのセルジオ越後である。

 まだアマチュアリズムの強かった時代。日本サッカー界に初めて”元プロ”を導入したのは、藤和不動産だった(結果、翌年には日本サッカー協会が新たな規定を作ることになる)。

 その翌年には、後にベルマーレの監督を務める古前田充など大学から有力新人も獲得。チームの強化に拍車がかかり始める。

 1975年に天皇杯で決勝進出(決勝で日立に敗れる)。1976年は天皇杯で4強入りし、日本リーグで3位となった。この時点でまだ創部から8年。にもかかわらず、強豪の一角を占めるまでに成長を遂げたのだった。

 この間の1975年には、チームをフジタ工業へ移管。「藤和不動産」単独ではなく、「フジタグループ」全体での支援体制となり、より手厚さを増した。

 このとき、練習場も栃木県から社有のグランドがあった神奈川県平塚市へ移転。これが現在のホームタウンとの縁の始まりとなるのである。

 そしてこのあと、黄金時代が到来する。

 1977年はフジタの年であった。日本リーグ初制覇。そして天皇杯でも初戴冠。優勝した天皇杯が全勝なのは言うまでもないが、リーグでも18戦して90分負けは1敗のみ(当時は同点の場合はPK戦があった)。まさに圧勝だった。

 とりわけ強力だったのは、攻撃力だ。史上最強と言っても過言ではないものだった。『日本サッカーリーグ全史』はこう伝えている。

<他のチームのディフェンスにストップするのを諦めさせるほどの威力をもっていた。……(中略)……「藤和」時代からチームを育て、監督3年目の石井義信が作り上げたフジタの破壊力だけが印象に残るシーズンだった>

「史上最強」は決して誇張ではない。この年フジタが記録した「シーズン64得点」(1試合平均にすれば3.55点!)、「18試合連続得点」(全試合である)などはいずれも史上最多。その後も破られることなく、27年に及ぶ日本リーグの歴史に残り続けたのだ。

 さらにフジタの時代は続く。翌年こそリーグ3位にとどまったが、1979年には再び日本リーグと天皇杯の2冠。さらに1981年にも日本リーグ制覇。

 天皇杯に関して言えば、1975年から1985年までの11大会中5回も決勝に進出。まさに黄金時代を築いたのだった。

 付け加えるならば、この時代がJリーグ草創期の「湘南の暴れん坊」のオリジンとなる。当時の中心選手が古前田であり、上田栄治であり、植木繁晴だったと言えば、「平塚」時代を知るサポーターにはうなずいてもらえるだろう。

 しかしその後、1980年代が進むにつれて(読売、日産が台頭した時代)、フジタの勢いに陰りが見え始める。1986年=8位、1987年=9位……。そして1989-1990年シーズン(秋春制)に12チーム中11位となり、ついに2部に降格してしまうのだ。

 このタイミングがフジタ、そしてベルマーレにとっては大きな意味を持つことになった。折しも日本サッカー界にプロ化の機運が高まり……。そう、Jリーグ発足が近づいていたまさにそのとき、フジタは低迷期に落ちてしまったのである。

 結果、『オリジナル10(※)』から落選。創設年からのJリーグ入りを逃すことになった。
※オリジナル10=1992年のJリーグ発足時に加盟した10クラブを指す通称。

「11番目のJリーグ」が合言葉だった。Jリーグが発足し、日本中にサッカーブームが巻き起こった1993年、『オリジナル10』から漏れたベルマーレ(この年から改称)は2部リーグにあたるJFL1部(当時は「J1」と呼ばれていた)を戦っていたのだった。

 監督は古前田。中心選手は、野口幸司、名塚善寛、名良橋晃、岩本輝雄……。黄金時代を知る監督のもと、若きタレントたちへと世代交代したチームは、このときすでに「湘南の暴れん坊」だった。このシーズンわずか2敗で、昇格条件の「2位以内」を確定。そして翌年からのJリーグ入りを決めるのである。

 最終戦でライバルのヤマハ(現ジュビロ磐田)を下し、優勝も決めたイレブンは平塚駅で大勢の市民から盛大な祝福を受けた。

「平塚駅を出たらすごい人で。盛大に迎えてもらったよね。特設ステージを……どこかに作ってくれて、実はあまり覚えてない。酔っぱらってて(笑)。ヤマハに勝って、新幹線に乗って、小田原で乗り換えて東海道線、いつもは普通車なのにグリーンに乗せてくれて、誰かがビールを用意してくれて……」

 回想の主は(内容でお察しかもしれないが)小島伸幸である。

 1988年にフジタ入社。本社総務部に籍を置き、午前中は都内で社員の出張旅費などのチェックをする仕事に従事。昼から小田急線に乗って平塚市北部のグラウンドへ向かい、練習が終わるとまた小田急線で会社の寮へ帰る。そんな社会人生活も経験している選手である。

 もちろん、1993年の頃にはすでに生活と環境は変わり始めている。出社がオフシーズンのみになった。建設会社らしく、それまで工事現場用のプレハブが置かれていた練習場に、クラブハウスが建った。もちろんフジタが建てた。

 この頃、資本金は500億円を上回り、年度売上も7000億円超。社員数5700人を抱える準大手ゼネコンが、選手たちの快適なサッカー環境と安定した生活を支えていた。

 ただ、ベルマーレのJリーグ昇格もすんなり決まったわけではなかった。昇格条件の「JFL1部2位以内」はクリアしたものの、「スタジアム基準」でJリーグから”クレーム”がついたのだ。

 だが、押し切った。わずか5カ月弱の工期で平塚競技場を改修。実現できたのは石川京一平塚市長(当時)の英断と、フジタによる採算度外視の突貫工事のおかげだった。

 そんな平塚競技場でベルマーレは躍動する。

 デビューシーズン、第1ステージこそ11位だったが、第2ステージではヴェルディ川崎と優勝争いを演じる快進撃。結果的に2位で涙を呑んだが、そのままの勢いで天皇杯を勝ち進み、1995年元旦には国立競技場でカップを掲げた。

 祝勝会はフジタ本社で行なわれた。国立競技場から程近い千駄ヶ谷に4年前竣工したばかりの18階建て本社ビル、その1階にメセナ活動として設置した公開スペース「ヴァンテ」にチームと関係者、そして応援する社員たちが集まり、祝杯をあげたのだ。

 明けた1995年、小島は日本代表に選ばれ、社員からプロ選手になった。小島だけではない。名良橋が、岩本が、名塚が、野口が、田坂和昭が次々と日の丸をつけた。

 優勝争いをすることは決して多くなかったから、「強いチーム」だったとは言わない。しかし、ベルマーレは個性的な選手がそろう「魅力的なチーム」だった。

 ゆえに、1998年のフランスW杯にはなんと4人が選出された。小島、呂比須ワグナー。そして中田英寿、それに韓国代表の洪明甫(ホン・ミョンボ)である。

 Jリーグ入りから5年。藤和不動産としての創部から数えれば30余年。順風満帆な日々が続いているように見えた。

 しかし――そう、ちょうど「18歳のルーキー」が産声を上げたあの秋、ベルマーレとフジタに突然の”別れ”がやってくるのだ。

(つづく)

=敬称略

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