セレッソ大阪のMF清原翔平【写真:Getty Images】

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大学卒業後8年目、プロになって5年目に迎えたJ1デビュー

 浦和レッズが3‐1でセレッソ大阪を一蹴した4日のJ1第2節。後半16分にひとつのドラマが生まれた。セレッソの最初の交代カードとして、30歳を目前にしてのJ1デビューとなるMF清原翔平が投入された。JFLのSAGAWA SHIGA FCを皮切りに、ツエーゲン金沢でJFLからJ3をへてJ2を経験。断腸の思いとともに移籍した新天地セレッソでJ1昇格に貢献し、悲願でもあった埼玉スタジアムのピッチに立った遅咲きの苦労人の、波瀾万丈に富んだサッカー人生を追った。(取材・文・藤江直人)

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 予感めいたものがあったのだろう。DAZN(ダ・ゾーン)によるインターネットのライブ配信だけでなく、地上波のNHK総合でも全国へ生中継された4日の浦和レッズ戦を、セレッソ大阪のMF清原翔平は「録画しておいて」と家族に頼んでいる。

 ヤンマースタジアム長居でのスタンド観戦となったジュビロ磐田との開幕戦から一転して、レッズとの第2節ではベンチ入りする18人のなかに名前を連ねた。先発でも途中出場でも、敵地・埼玉スタジアムのピッチに立てば、追いかけ続けてきた夢のひとつがかなう。

 J1の舞台でプレーしたい――。札幌大学を卒業して8年目。プロになって5年目。そして、セレッソの一員になって2年目。6月25日には30歳の誕生日を迎える。1‐3と2点ビハインドで迎えた後半16分。ウォーミングアップに余念がなかった清原に声がかかった。

 最初に切られた交代カードとして、MF関口訓充に代わってピッチへ送り出される。劣勢の流れを変えて来い――。攻守両面で泥臭くボールに絡んでいくプレーを身上とする清原は、尹晶煥監督から託されたメッセージを具現化すべく中盤の右サイドに入った。

「武者震いとかは特に。あまり緊張するタイプではないので、点差と残り時間を考えて、自分にできることをしっかりやろうと」

 対面にはDF槙野智章の姿が見えた。苦い思い出が蘇ってくる。2005年9月に開催された「晴れの国おかやま国体」のサッカー競技少年部門。当時帯広北高校3年だった清原を擁した北海道選抜は、1回戦で広島県選抜と対戦。1‐2のスコアで敗れて、岡山の地を後にしている。

 広島県選抜の中盤には森重真人(当時広島皆実高校)が、最終ラインには槙野(同サンフレッチェ広島ユース)がいた。得点経過などの詳細は曖昧になりつつあるが、森重に直接フリーキックを叩き込まれたシーンだけは鮮烈に覚えている。

「国体以来の対戦でしたけど、今日はあまり(マッチアップが)なかったですね。彼(槙野)は僕のことを知らないと思いますけど、それぞれの道を歩んで、こういう舞台でまた戦えるのは、僕としてはすごく嬉しい。彼だけではなくて、同世代の選手に対しては特にそう思います」

所属元の実質的な廃部で受けたショック

 それぞれの道を振り返れば、槙野は翌2006シーズンにサンフレッチェのトップチームに昇格し、ブンデスリーガのケルンを経て、2012シーズンからレッズでプレー。その間に日本代表として国際Aマッチ24試合に出場している。

 一方の清原は札幌大学からJFLのSAGAWA SHIGA FCへ加入。プロではなく社員選手として、自らの可能性を追い求めてボールを追った。もっとも、立場的にはアマチュアだったとはいえ、JFLの強豪でもあったSAGAWA SHIGA FCはサッカーに専念できる環境が整えられていた。

「仕事といっても、年末の忙しい時期に商業施設へ行って、佐川急便のトラックの到着を待って、積まれていた荷物を配る内容だったので。あとはある程度免除されていたというか、基本的にはかなり優遇されていたと思います。サッカーにほぼ集中できていたので」

 2年目となった2011シーズンの中盤からレギュラーに定着。トップ下を主戦場としてチームトップの12ゴールをマークして優勝に貢献し、翌2012シーズンには17ゴールで再びチーム得点王になり、リーグのベストイレブンにも選出された。

 順風満帆な軌跡を刻んでいたからこそ、2012シーズン年限りでSAGAWA SHIGA FCが活動を休止、実質的な廃部となったことはショックだった。シーズン終盤に古傷でもある右足小指のつけ根を疲労骨折していたことも、胸中に募る不安に拍車をかけた。

「いままでのサッカーに関係することでは、自分のなかでは(SAGAWA SHIGA FCの活動休止は)一番衝撃的でした。ちょうどけがをしていたこともあって、サッカーを続けるかどうか、というか次の道へ進むに当たって本当に心細いところがあったので」

 いくつか届いたオファーのなかから、唯一、プロ契約を提示してきたのが当時JFLのツエーゲン金沢だった。SAGAWA SHIGA FCは優勝しても上のカテゴリーは目指さない方針だったが、ツエーゲンは違った。後のないプロという環境に身を置き、ともに上へと歩んでいく。決意はすぐに固まった。

プロという夢をかなえてくれたツエーゲン金沢への感謝

 前年から引きずる故障の影響でやや出遅れたが、「上を目指すにはつまずいていられる年齢ではない」と一念発起。チームトップの13ゴールをあげて、再びリーグのベストイレブンに選出された。

 シーズン中には、翌2014シーズンから創設されるJ3にツエーゲンが参戦することも決定。オフに異例ともいえる5年契約を結んだ清原は、新たな舞台に挑むチームの象徴としてキャプテンに指名される。

 清原自身、プロという夢のひとつをかなえてくれたツエーゲンにはいまでも感謝している。2012シーズンのオフに声をかけてくれなかったら――。仮定の質問に対して、即座にこんな言葉が返ってきた。

「(いまの僕は)なかったと思う。どうなっていたかはわからないけど、教職を取り直して、おそらくは学校の先生をやっているかもしれませんね」

 ツエーゲンの初代J3王者の拝命は、再びチームトップとなる9ゴールをあげ、キャプテンとしても力強くけん引した清原の存在を抜きには語れない。J2に舞台を移した2015シーズン。清原は4月末までにリーグトップの8ゴールをあげて、堂々の月間MVPを獲得する。

 夏には生涯の伴侶も得た清原にその年のオフ、2度目のターニングポイントが訪れる。セレッソから届いたオファー。ツエーゲンとの契約はまだ3年も残っている。何よりも、自分を拾ってくれて、J3からJ2へと未知なる舞台に導いてくれた恩もある。

 一方でもうひとつの夢、J1の舞台でプレーする可能性を比較すれば、2015シーズンのツエーゲンは前半戦こそ首位に立つ快進撃を見せながら後半に失速して12位に終わった。翻ってセレッソは1年でのJ1復帰こそならなかったが、J1昇格プレーオフ決勝まで駒を進めている。

 悩んだ。悩み抜いた。時間の経過とともに、上の舞台を目指したいという、アスリートの本能とも呼ぶべき思いが勝るようになった。ツエーゲンも最後は力強く背中を押してくれた。功労者でもある清原へ、西川圭史代表取締役GMはこんな言葉をサポーターに発信している。

「おそらく石川県内でもっとも名前の知られた選手となっている彼が、チームを離れることは大きな痛手です。しかし、もっと上の世界に挑戦したいという意思を尊重し、快く送り出してあげたいと思います。ぜひ彼の挑戦を応援してあげてください」

J1昇格プレーオフ決勝で奪った値千金のゴール

 新天地セレッソで迎えた2016シーズン。清原が立った舞台はJ2ではなく、U‐23チームを参戦させているJ3だった。オーバーエイジ枠でのプレーだったが「チャンスを得たときにパワーを出せるように、毎回ずっと準備している」という真摯な姿勢は変わらない。

 ひとつだけ心残りをあげれば、古巣ツエーゲンとの対戦でホーム、アウェイともにピッチに立てなかったこと。J3そのものは6試合で卒業し、汗をかきながらチームの潤滑油になる不可欠な存在として、セレッソのなかで確固たる居場所を築いていく一方で、下位に低迷する古巣の動向はやはり気になる。

 2年連続で決勝に進出した12月4日のJ1昇格プレーオフ。J3で2位に入った栃木SCとの入れ替え戦に回っていたツエーゲンが、勝って残留を決めた一報をキックオフ前に受けた。安ど感が込みあげてきた。先発で臨むファジアーノ岡山との決勝へ、新たなパワーをもらった気がした。

「コーナーキックからのこぼれ球というのは、シーズンを通して狙ってきたこと。ゴールそのものは泥臭いというか、ただ詰めるだけでしたけど、最後の最後で結果を出せたことは自分のなかではよかったと思っています。自分らしいと言えば自分らしいゴールでしたね」

 冷たい雨に打たれながら繰り広げられた死闘に、決着をつけたのは清原だった。ともに無得点で迎えた後半7分。コーナーキックからのこぼれ球に両チームの選手たちが入り乱れた直後に、目の前にこぼれてきたボールを無我夢中で押し込んだ。

 試合終了とともにキャプテンのFW柿谷曜一朗が、シーズン途中にブンデスリーガのハノーファーからわずか半年で復帰したMF山口蛍が、ひと目をはばかることなく号泣する。新たな歴史が紡がれたキンチョウスタジアムでヒーローになった清原は、こんな言葉を残している。

「別のチームにいましたけど、昨シーズンに昇格できなかったセレッソの姿を自分も見ていた。そのときの悔しさというものが、サポーターの方々からも1年間を通してずっと伝わってきたので。J1に戻れて、本当によかった」

「他とはちょっと違った歩み方をプラスに考えて、生かしていきたい」(清原翔平)

 JFLからスタートを切り、3つの異なるユニフォームに袖を通しながらJ3、J2とステップアップを果たし、ついにはJ1のピッチに立った。8年目にさしかかったここまでのキャリアを長かった、あるいは遠回りをしたと感じているのか。清原は静かに首を横に振った。

「本当に1年1年、目の前のステージで一生懸命やってきた結果だと思うので。他の選手たちと比べることもないですし、自分なりに歩んできた道だといまでは思っています。ただ、1試合ですけど、J1という舞台に出られたことは大きいし、これからにつなげていきたい。

 今年30歳になりますけど、20代のうちにいろいろなことを経験できたことはすごくよかった。他の選手はなかなか経験していないと思うし、他とはちょっと違った歩み方をプラスに考えて、生かしていきたい。具体的にはいますぐどうこう、というのは出て来ないんですけど」

 清原は周囲に対して、いつかは満員の埼玉スタジアムでプレーしたいという夢も語っていたという。J1デビューと同時にかなえられたのは、決して下を向くことなく努力を積み重ねてきた165センチ、64キロの小さなレフティーに対する、サッカーの神様の粋なご褒美だったのかもしれない。

 もちろんJ1デビューも埼玉スタジアムも、もっと大きな夢へ向けた通過点にすぎない。故障離脱中の清武弘嗣や水沼宏太が復帰してくれば、中盤の競争はさらに熾烈なものになる。

「J1で同年代の選手もまだ何人かいるし、そういう選手たちと戦えるのも楽しみですけど、そのためには試合に出続けないと。もっと信頼してもらえる選手になることを意識して、これからも頑張っていきたい」

 29分間プレーして、放ったシュートはゼロ。家族が録画してくれたレッズ戦の映像は一生の記念になると同時に、スコアを動かすことなく試合終了を迎えたことで「悔しくて苦い思いをするでしょうね」と清原は苦笑いする。

 それでも背番号18が埼玉スタジアムに刻んだ一挙手一投足、何よりも今年30歳になる選手が決してあきらめることなく、愚直に前へ進んできた末にJ1デビューを果たしたという事実は、J2以下のカテゴリーで懸命にプレーする選手たちに大きな夢と刺激を与えるはずだ。

(取材・文:藤江直人)

text by 藤江直人