なぜ「iPodのシャッフル機能に奇妙な仕掛けがある」と考えるのか

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■音楽プレーヤーの奇妙な体験とは

約10年前の本になるが、アメリカのITジャーナリストであるスティーブン・レヴィは、『iPodは何を変えたのか?』(ソフトバンク クリエイティブ)のなかで、自身の奇妙なiPod体験について報告している。

彼が「自分の音楽コレクションをシャッフルして再生していると、異様な頻度でスティーリー・ダンの曲が顔を出す」というのだ。レヴィのiTunesライブラリには3000曲ぐらいが入っているが、スティーリー・ダンの曲はそのうちのおよそ50曲にすぎない。率にして、わずか2%以下だ。にもかかわらず、彼のiPodは「スティーリー・ダンにぞっこんだった」。

iPodのシャッフル機能は、本当にランダムに再生しているのか。ひょっとしたら、プログラムになんらかの細工が施されているのではないか。

<私がニューズウィーク誌にスティーリー・ダン問題の記事を書いたところ、私のメールボックスは、賛同者からの電子メールで埋め尽くされた。イエス! イエス! イエス!>

その反応を、いくつか列挙しておこう。

「(前略)私が何か歌やバンドを思い浮かべると、あらびっくり、iPodは次にその曲を再生するんだよ」
「iPodには気分の変化があるらしい。日曜日と月曜日の夜はブルース。平日の夜はロック。月曜日と水曜日の朝はフォーク、木曜日の朝と土曜日の午後にはブルーグラスがよくかかる」
「何が癪に障るって、夏しかクリスマスソングをかけないことだよ」

他にも、ガールフレンドを車に乗せると、2回に1回のペースでボブ・ディランを再生するなんて投稿もあった。このように、多くの人が、iPodのシャッフル機能には、何か不思議な仕掛けがあるのではないかと訝しんでいたのだ。

■人はランダムな出来事に規則性を求める

だが実際には、シャッフル機能にカラクリはなかった。アップルの開発者は「完全にランダムだよ」と言い切った。さらに著者は、テンプル大学の数学教授にアドバイスを求めた。その数学教授は、シャッフル機能が示す不思議な現象を聞かされても、驚くことなく次のように答えたという。

「人間はしばしば、本当はランダムな出来事から何らかのパターンを読み取ったり、ときには無理矢理こじつけたりするものなんです」

なんとびっくり。iPodの陰謀のように思えた奇妙な現象は、じつは人間の側が勝手に読み込んだパターンに過ぎなかったのだ。ランダムな並びのなかに何らかのパターンを読み取ってしまう。偶然性のなかに規則性を見出してしまう。こうした人間の性向は、前回取り上げた「無知の無知」という話と深く関わっている。というのも、パターン認識は、パターンに含まれないものを無視することで、いっそう強化されていくからだ。

パターン認識について、もう少し掘り下げて考えてみよう。

ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』(早川書房)によると、人間の思考経路には、「速い(ファスト)思考」と「遅い(スロー)思考」の2種類があるという。「速い思考」は直感、「遅い思考」は理性と考えて差し支えない。暗闇で物音を聞いて逃げ出すのは直感的判断によるものであり、納期に遅れないように適切なスケジュールを組むのは理性的な思考が働いているからだ。

iPodのランダムな再生からパターンを読み取ってしまうのは、当然、直感の働きによるものだろう。理性を使えば、同じアーティストの曲が続けてかかったり、時間内に複数回かかったりする確率を割り出すことはできる。でも、iPod神秘主義者は、そんな計算をすることなく、直感的にパターンを読み込んでしまったのだ。

もちろん直感には、たくさんの取り柄がある。「速い思考」という言葉が示すように、瞬時の判断に長けているし、自動的に作動するので脳の負担も軽い(カーネマンは「速い思考」を「自動操縦モード」と言い換えている)。それゆえ、日常生活の大部分は、直感を頼りにして営まれている。私たちがテキパキ料理したり、スポーツを楽しんだりできるのは、ひとえに直感の賜物だ。

でも、こうした直感の長所は、その欠点と紙一重でもある。というのも、パターン認識のような直感的判断は、速いがゆえに誤りやすいからだ。そして、誤った直感的判断はいともたやすく「認知バイアス」に転化してしまう。

「認知バイアス」といっても、難しい話じゃない。要するに根拠のない偏見や思い込み、決めつけのことだ。iPodのシャッフル再生には何か企みがあると思い込むのも認知バイアスだし、人種差別や民族差別も認知バイアスにほかならない。

■認知バイアスの修正が難しい理由

カナダの哲学者ジョセフ・ヒースは、『啓蒙思想2.0』(NTT出版)のなかで、この手の認知バイアスにどっぷりハマってしまうと、「否定的要素」を考えられなくなると指摘している。

<人は仮説を考えるとき、仮説と整合性のとれる肯定的証拠ばかりを探しがちになる一方で、仮説と整合性のとれない証拠がないことは確認し損なう。「否定的要素を考える」ことをしないのだ>

ひとたび誰かを嫌いになると、その人間の悪い面ばかりを探そうとして、好ましい言動は無視する。場合によっては、好ましい言動すら「悪者」の材料として解釈するだろう。慈善活動を偽善呼ばわりするように。

ヒースは、認知バイアスに陥っているかどうかを自分自身で診断するのは、非常に難しいという。なぜか。彼はそれを「進化的コスト」の低さという点から説明している。

<捕食獣に食べられる危険のある環境では、草のそよぎも潜在的な脅威と見なすに如くはない。「びくついて」何もないのに逃げ出すことのコストは、明らかな兆しを無視して体を食いちぎられるコストより、はるかに安上がりだ。だから私たちはパターンを見つけると興奮してしまう。もしも「自分は間違っていたら?」と考えるのは、自然に起こる発想ではない。理性によって認知に課される抑制である>

直感的なパターン認識は、動物が身を守り、生き残るのに有用だった。その末裔である私たちに、パターン頼みの行動が染み付いてしまっているのも無理はない。だからこそ、パターン認識がもたらす認知バイアスの自己点検や自己修正は難しい。理性はゆっくりとしか働かないし、直感に比べてはるかにコストがかかるため、「自分は間違っているのでは?」とチェックする労をケチってしまうのだ。

「無知の無知」の厄介さは、ここにある。知らないことを知らない状態とは、認知バイアスそのものだ。とすると、どれだけ謙虚を心がけようが、自戒しようが、私たちは生物的な「無知の無知」から完全に免れることはできない。それはほとんど宿命のようなものだろう。

でも、宿命だからといって、諦めてすませられる問題ではない。iPodのシャッフル機能から神秘的な力を感じ取るぐらいならかわいいバイアスだが、「○○のせいで、俺たちの富が奪われている」「○○が世界を操っている」と集団的に思い込むなら、ナチスやカルトまであと一歩だ。そして恐ろしいことに、両者の違いは「程度の差」でしかない。

じゃあ認知バイアスの危険な誘導を抑制するには、どんな手があるだろうか。次回からはいくつかの有力な対策案を検討してみることにしよう。

(斎藤哲也=文)