『無限の書 (創元海外SF叢書)』G・ウィロー・ウィルソン 東京創元社

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 昔の恋人たちは、別れたあと、それまでにやりとりしたラヴレターを海辺で燃やして気持ちに区切りをつけたものだ。しかし、現代ではそう簡単にはいかない。ネット文化のなかにいれば、SNSなどで別れた相手の情報がいやでも目に入ってくる。『無限の書』は、主人公アリフのそんな悩みからはじまる。

 舞台となるのは中東の専制都市国家〈シティ〉。油田がもたらす富は特権階級だけを潤し、民衆のあいだには貧困と不満が蔓延している。捌け口をネットに求めようにも、厳しい検閲によって封じられてしまう。アリフは凄腕のハッカーとして、ネット上の反体制派(政治的なブロガーからポルノ作家まで)に、規制をかいくぐるプロテクションを提供している。彼自身には特定のイデオロギーはない。しかし、資産家であるアラブ人の父と、その第二夫人であるインド人の母親のあいだに生まれた事情で、民族的帰属においても社会的立場においてもマイノリティであり、その鬱屈が原動力となっている。

 そのアリフが、つきあっていた恋人インティサルから、突然、別れを告げられる。彼女は貴族階級の令嬢であり、父親の面目を保つため、別な男と結婚するというのだ。アリフはとうてい承服しがたいが、言い争いの末、インティサルから「あなたの名前が二度とわたしの目に触れないようにしてちょうだい」と言い渡されてしまう。そこまでいうなら徹底的にやってやろうじゃないかと、ネット上で彼女から自分が完全に見えなくなる策を講じる。『無限の書』の原題Alif the Unseen(見えざるものアリフ)はこれに由来する。インティサルのユーザーネームをすべてブロックし、IPアドレスをフィルタリングするだけではない。彼女の打鍵のクセや、用いる文法構造や綴り、使用言語の比率を自動的モニタリングによってパターン識別し、どのパソコンやアドレスを使おうとすべてはじくのだ。このアイデアがまず面白い。

 だが、このために常駐させたソフトが仇となって、アリフはネット検察官〈神の手(ゴッド・ハンド)〉のアンテナにひっかかってしまう。〈ハンド〉の追及を逃れるべく、アリフは吸血鬼ヴィクラムと呼ばれる裏社会の顔役に助けを求める。このヴィクラムがただものではない。彼の登場で、物語はサイバーアクションから一転して神話の世界へと突入する。そこで大きなカギとなるのは、アリフがインティサルから託された一冊の古書----『千一日物語(アルフ・イエオム・ワ・イエオム)』だ。

 フランスに『千一夜物語』が紹介されてまもなく、類似の物語集として『千一日物語』が発表されたが、そのアラビア語原本は見つかっておらず、こんにちでは偽書だったとみなされている。しかし、インティサルはどこからか、その実物(アラビア語原本)を手に入れていたのだ。それを見たヴィクラムはいう。「『千一日物語』はただの物語集ではないよ(略)。このタイトルだって偶然じゃあない----『夜』の反対、裏返しだからね。ここにはわたしの種族の並行知識すべてがふくまれ、未来の世代のためにまとめられている。これは人の手によるものではない。幽精(ジン)によって語られた物語なんだよ」。

 そこから先がじつにスリリングだ。じつは〈ハンド〉も『千一日物語』を探している。それぞれの言葉が何層もの意味をあらわす書物。もし、その記述様式を電子的に再現しうるなら......。このあたりのロジックはSFならではの飛躍で、物語の展開も起伏に富んで面白い。ウィリアム・ギブスン『カウント・ゼロ』でブードゥー教が題材になったように、電脳空間は土俗の神話とたやすく接続する。

 見逃せないのが、アリフの思想と〈ハンド〉のそれとの相克だ。両者とも〈シティ〉の現状に不満をいだいている。しかし、アリフがネットを足がかりとした民主主義をめざすのに対し、〈ハンド〉はネット活用の監視と保安でしか秩序は生まれないと考える。このあたりが妙に生々しい。それもそのはず。作者ウィルソンはアメリカ生まれだが、ボストン大学卒業後にカイロへわたってイスラム教に改宗。現地で知りあったエジプト人と結婚している。『無限の書』を執筆している時期が、ちょうど民主化運動「アラブの春」と重なっていたらしい。

 鍛治靖子さんが「訳者あとがき」で言及なさっているように、「アラブの春」ではSNSでの意見交換や連携が大きな力になった。この物語で奮闘するアリフの姿にも、それが色濃く反映されている。

 サービスを提供するシステムを止めれば、アリフが友だちと呼んでいたハッカーやマニアも二週間もしないうちに彼のことを忘れてしまうだろう。ネットとはそういうものだ。そう嘆くアリフを、幼なじみの娘ダイナが「あんたにはまだ現実の友達がいるわ」と慰める。しかし、それを聞いた、アリフのハッカー仲間アブドゥラがこう言い放つ。「ネットの友達こそリアルな友達だ」。

 二週間で自分のことをすっかり忘れてしまうけれど、リアルな友達。いっけん薄情なようだが、本来の互恵性とはそういうものかもしれない。これが物語の後半で、大きく意味を持ってくる。

 テクノロジーと神話がシームレスにつながり、しかしマジックリアリズムとも違う、独特の雰囲気を醸しだす物語。2013年度の世界幻想文学大賞を受賞している。

(牧眞司)