又吉直樹作、第153回芥川賞受賞作品「火花」が日曜午後11時からNHKで連続ドラマとして放送開始された。冒頭のネタ合わせをするシーン、歩きながらやっているのは二人の会話のリズムを合わせるという意味があるらしい。


ドラマ全10話が映画的で超豪華


「火花」は、ドラマというよりも映画に近い。それも情緒を重んじてゆったりとした邦画だ。1シーン1シーンの長さ、カメラの手ぶれ、明るすぎない自然光を活かした照明、少し聞こえ辛くもあるリアルなセリフの音量、セットをあまり使わない所も映画っぽい。これが全10回、なんて贅沢なドラマだ。もとはNetflixの製作、こんなに力を入れているとは思わなかった。

小説や漫画などを映画化した場合、約2時間にまとめるためにストーリーの一部をカットしなければならない。しかし、ドラマはその逆だ。間延びしない為にオリジナルストーリーを入れ込む。一話一話に盛り上がり所と、次回への引きを作る。カットもオリジナルストーリーも、間違いなく作品を面白くするために行っていることだ。しかし、時にそのせいで原作ファンから非難を受ける事もある。これは視聴者と制作側に存在するなかなか埋まらない悲しい溝だ。

その点で「火花」はちょうど間だ。全10話を原作に忠実に、主張のつよいオリジナルストーリーを足すことなくつくられた作品だ。その代わり、「火花」はドラマにとって重要な要素をいさぎよく放棄している。

1話あらすじ


売れない若手芸人「スパークス」の徳永(林遣都)は、熱海で花火大会の賑やかしの営業に駆り出される。そこで出会った先輩コンビ「あほんだら」の神谷(波岡一喜)に陶酔し、弟子入りを志願する。神谷が出した条件は、自分の伝記を書くこと。東京に帰った徳永は、相方とのネタ合わせとうだつの上がらない営業に終始する。そんな中、大阪で活動する神谷からあほんだらも東京に進出するという知らせを受ける。

第1話の内容はたったのこれだけ。特別な盛り上がり所と、来週への引きを無理に作らず放棄しているのだ。これは潔い。ドラマなのに映画的、絶対に面白いという自信がなければ出来ない手法だ。お金のかけ方だけでない。「火花」はいろいろな意味で超豪華な仕上がりになっている。


なぜ徳永は、神谷に憧れたのか?


なぜ徳永は神谷に憧れたのか。「自由奔放で、天才的なセンス」と予告動画やあらすじで散々聞いたが、何が自由奔放で、どこに天才的なお笑いのセンスを感じたのだろうか。

熱海の花火大会の日、前出番の町内会長達による「金色夜叉」が長引いたせいで、花火が打ち上げられている最中という芸人にとって最悪な状況でスパークスとあほんだらは漫才をするハメになった。

それでもスパークスは、お揃いのスーツできっちりと漫才をこなす。客には届かなかったが、一生懸命声を張り上げ、精一杯を表現した。

一方のあほんだらは、私服のような衣装でダラダラと登場し、客に媚びるような自己紹介もしない。ネタは「顔を見ればその人が天国か地獄、どっちに行くかわかる」と言いだし、客が全員地獄行きしかいないというとんでもなくトガッたもの。単独ライブならともかく、およそ初見の人間に見せる種類のネタではなかった。

コンビ名も「スパークス」は当たり障りなく、「あほんだら」はド直球。ネタのハードルも上がりそうな名前だ。これでは、徳永が自分が型にハマった小さな芸人と思い込んでしまっても仕方ない。

しかし決定的なのは、神谷が地獄地獄地獄・・・と叫び続けた最中、幼い女の子に話しかけた、
神谷「お嬢ちゃん、楽しい地獄」大林(とろサーモン村田秀亮)「嘘でも天国言うたれや」という下りだろう。

一見、自分の好きなネタを好きなようにやるだけのトガッたヤバい奴かと思われた神谷が、実はそうではないという事がこの一つの下りだけで、徳永には伝わった。

風貌や言動やネタ選びから、神谷が自由奔放なのは間違いない。だが、それと同時にちゃんと客に媚びている部分も混在している。神谷は“自分のセンスを見せつけたいだけの人”ではなく、“自分が考えた面白い事で笑ってほしい”というだけの人間なのだ。

それがたまたま人からはトガッているように思われ無頼のように見える。だが、実はただの真摯な芸人だという事実が、この時の徳永にはたまらなくカッコ良く思えたのだ。

2話からは二人の東京での売れない芸人生活が描かれる。まだまだ大きな事件は起きないが、ここでの二人の関係が後のドラマへとつながっていく。ちなみに、再放送は日曜午後4時10分からだ。

(沢野奈津夫)