3日、澎湃新聞はコラム「シェアサイクルは民度を露呈させたのか?まずは“シェアリング・エコノミー”そのものを反省するべきだ」を掲載した。中国人の民度の問題ではなく、シェアリング・エコノミーそのものの問題だと指摘している。写真は中国のレンタサイクル。

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2017年3月3日、澎湃新聞はコラム「シェアサイクルは民度を露呈させたのか?まずは“シェアリング・エコノミー”そのものを反省するべきだ」を掲載した。

近年、中国ではシェアサイクルが注目のニュービジネスとなっている。街中のいたるところにあるシェアサイクルを利用でき好きな場所に乗り捨てが可能という便利なサービスだが、流行するにつれて新たな問題も浮上している。通行の邪魔になっているのが腹立たしいのか川に自転車を投げ捨てる人もいれば、自分が使いたい時に使えるようにと勝手にカギをかける人もいる。また勝手に作った私設駐輪場だからと駐輪料金を要求する人まであらわれた。SNSを見ると、中国全土のシェアサイクルを阻害する行為が報告されており、中国人の民度の低さだと嘆く声であふれている。

だが本当にそうだろうか。シェアサイクルのみならず、カーシェアリングや民泊などのシェアリング・エコノミーは新時代の経済だとして信仰する人が多いが、そうしたサービスは結局のところ企業と消費者という関係でしかなく、本当の意味でのシェアリング・エコノミーではない。本来の意味での公共性は社会と政府の中間にあり、市場はその対象ではない。実際、シェアリング・エコノミーを称賛する人々は本当の意味では公共性を必要としておらず、公共性を大義名分として人々を新たなビジネスモデルに駆り立てようとしているだけなのだ。(翻訳・編集/増田聡太郎)