東京に生きる、結婚しない女性のストーリー。今回の主人公は、コンサルティング会社で働く、町山響(37歳)。

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深夜0時の六本木一丁目。すっかり煮詰まったコーヒーが入った紙コップを片手にした町山響は、ガラス張りの高層オフィスから向かいのオフィスビルを見下ろした。すると、青白い光の中、多くのスーツ姿の人々が、餌をつつく養鶏場の鶏のようにキーボードを打っていた。

外資系の企業が集まるオフィスビルが林立しているこの街は、昼夜を問わず、ビルのどのフロアも人が働いている。幾重にもかけられた複雑なセキュリティー、専用のIDとパスワードがないと、外にさえ出られない。

内側からいつでも開くとはいえ、特殊なパスワードを入力しないと開かない扉の部屋で働かされるとは、強制労働者と同じだと響は思う。しかし、誰もがブラック企業だとは言わない。なぜなら給料が高いからだ。37歳の響の年収は、同世代の日本企業に勤める男たちの約3倍だ。

ここ数年、朝の7時から深夜0時までオフィスにいて、土日、ゆっくり休んだのは記憶にないくらい昔のことだ。昔、誰かが人間は習慣の奴隷と言ったが、まさに響がそれだ。隣のオフィスをもう一度見ると、再びデスクに戻り、パソコンに向かった。

響の仕事は、倒産しかけた大手企業を買収した投資会社から依頼され、経営再生のためのコンサルティングを行なうことだ。倒産しかけているが知名度がある会社が抱える問題を発見し、対策案を立てる。それを実行させて結果を出させる。その運用までが責任の範囲内なので、緻密な分析力が求められる。

ここ数か月間、響は投資会社に買収されたアパレル会社の業績を再生させるためのプランを担当している。世界中からデータを集め、何本もの仮説を立てていたが、相手は全く納得しない。響が100%だと思っても、相手は120%を要求する。その繰り返しももう限界だった。

自慢の娘であることが、アイデンティティー

幼いころから、成績優秀で努力家の響は、両親の自慢の娘だった。商社勤務だった父親の海外赴任に合わせて、家族は移動した。幼少期をドイツのデュッセルドルフで過ごし、帰国してから日本の小学校に通った。そしてすぐにニューヨークに行き、中学3年生まで過ごした。高校は日本の名門女子高校に進み、最高学府と呼ばれる大学を卒業した。卒業後はアメリカの名門大学でMBAを取得。数字の分析力、論理力、発想力のすべてに自信があったが、1年に1回は壁にぶち当たる。

人の気配を感じてPCから顔を上げると、同僚の圭一郎が白い歯を見せて笑っていた。「あんたたちはそう言うけど、これがホントに正しいのか?」とクライアントの口調をマネしておどけ、響の気分をほぐしてくれた。

「う〜ん、どれもが正しく、全部が間違っているように見える」と同じ口調で返し、圭一郎もクスッと笑った。笑いの力は偉大だ。張りつめた緊張感、絶望的な状況を吹き飛ばしてくれる。

「今日は金曜日だし、もう飲みに行こう」と圭一郎が言うと、「いいわね」と返し、パソコンをシャットダウンした。日本企業の新入社員の給料分はするであろう、カシミアのショート丈のコートに袖を通し、フランスの老舗ブランドの大きなトートバッグを片手に、圭一郎とともにオフィスを背にした。

深夜1時に響と圭一郎は六本木のレストランで、トリュフをたっぷりかけたサラダをつつきながら白ワインを飲んだ。テーブルの上には、圭一郎のiPhoneが画面を上にして置かれていた。やましいところがない男は、無防備にスマホの画面を人前に晒す。

響と同じ年の圭一郎は、3年前に結婚した10歳年下の専業主婦の妻と、2歳の娘を溺愛している。モデルのような長身と明晰な頭脳を持つ響と圭一郎を、同僚たちはいつか結婚するのではと噂していた。しかし、最終的に圭一郎が選んだのは、小柄で華奢で愛らしく従順であり、本質的にはワガママな10歳年下の無学の女だった。

圭一郎からiPhoneが暗闇で光った。その瞬間、彼と妻と娘が笑っている写真が暗がりの中に一瞬浮かび上がり、響の胸をチクリと刺した。「お、タケシからだ。あいつも来るってさ」と、別部署の同期の名前を言った。

ソファーに倒れ込みたいほど眠いのに、こうしてワインを飲んでいるのは、あなたと2人きりだから、という言葉を押し込んで、響は「いいわね。でも私はタケシが来たら帰るね、さすがに疲れた」と言いながら、鎌倉の有機野菜だと能書きがついた、やたらと色が濃く力強い味がするサラダをフォークでめった刺しにして、口に運ぶと、白ワインで流し込み、立ち上がった。

ワインアドバイザーの資格も持つ響は、フランスのモンラッシェ村の白ワインが好きだ。

響の部屋で待っているものとは……〜その2〜へ続きます