ディズニーのファンタジーアニメ『アナと雪の女王』(クリス・バック+ジェニファー・リー監督、2013年)が3月4日、『土曜プレミアム』(フジテレビ系)で初めて地上波で放送される。


いろいろ新しかった『アナ雪』


『アナと雪の女王』は日本を含む世界各国で好意的に受け入れられた。
日本では、《日経トレンディ》の「2014年ヒット商品ベスト30」で『妖怪ウォッチ』を抑えて1位となった大ヒットコンテンツだ。

ダブルヒロインという設定もディズニー史上初なら、異性に承認されることを着地点としないエンディングもディズニーヒロイン史上新しかった。

そしてなにより、エルサ(イディナ・メンゼル)の劇中歌”Let it Go”(アカデミー賞歌曲賞)を世界中のファンが歌って動画をYouTubeにアップし、コピーライトに厳しいディズニーがこれを事実上黙認することによって、作品のプロモーションになってしまったのも、またエポックメイキングな現象だった。
コンテンツがコミュニケーションツールとなることを、世界規模で証明してみせた作品だ。

「赤い糸」が存在しないプリンセスたち


先述のとおり、本作の着地点は旧来のディズニーヒロインアニメのような「ロマンス」「求婚」ではない。

たしかにヒロインのひとりにははっきりとロマンスが存在するが、それはシンデレラとプリンス・チャーミング、ベルとアダム王子(『美女と野獣』)などの先行する「赤い糸」的なワイルドカードではない。そこが『アナ雪』の魅力だ。


もちろん旧来のディズニープリンセスだって、決まり文句で言う「お姫さまキャラ」などではなく、多くは活発で主体的に行動するヒロインではあった。しかし物語の最終的な解決において、「王子」役の意志が決定的な役割を果たしていたというのもまた事実。
それまでのディズニーヒロインは、土壇場で「彼氏」になんらかの決断を示してもらう傾向があった、というわけだ。ざっくり言ってセカイ系なんである(←いくらなんでも雑な言い草)。

『アナ雪』のばあい、「王子」役に相当する人物はいちおう存在し、彼はたしかにヒロインの異変にいち早く気づくなど重要な役を果たすけれど、それはあくまで物語論で言う「助力者」の働きだ。

『アナ雪』のヒロインたちは、状況を変えるのに性別は関係ないということ、「親」や「男の子」や「世間」に「わかってもらう」ことではなくとにかく自分がなにかをすることによって状況を変える可能性があるということ、を見せてくれる。

まず誤解される「自己犠牲」


本作はアンデルセンの童話『雪の女王』にインスパイアされていると称しているが、登場人物や人物どうしの関係ではなく、自己犠牲という主題だけをそこから継承したと言っていい。


自己犠牲という語が作中でセリフなどで明言されることはないが、あきらかにこれがキーワードとなる。
まず、ストーリーは王女エルサが「自己犠牲」を履き違えることから始まる。

エルサは生まれつき、ものを凍らせたり雪を降らせたりする魔法能力を持っていたが、その働きをコントロールすることができない。彼女は8歳のときに不注意からその魔法の力で、3歳歳下の妹アナを生命の危機に陥らせてしまう。

以後彼女は、両親が悪気なしに結果的に彼女を抑圧したこともあって、自分の危険な魔力が暴走しないように、妹を含む家族との接触を断ち、引きこもりというか座敷牢入りのような暮らしを続ける(幼少期に力加減を間違えて弟妹や年下の遊び相手を泣かせてしまって大人に叱られた経験がある人なら、このつらさはわかるだろう)。
妹のアナはアナで事故の記憶がないので、姉がなぜ自分を避けるのかわからず、ずっと寂しい思いをしてきた。

エルサのこの忍従は、失敗を繰り返すことへの恐れに端を発している。
これこそ第一子長女らしい自罰的・自己抑圧的な態度だ。日本人的な「滅私奉公」「がんばり」にもつうじる、いわば「誤った自己犠牲」、自己犠牲の暗黒面(ダークサイド)と言えよう。

エルサは戴冠を控えた21歳の夏、アナの恋愛が原因でふたたび魔力の制禦が効かなくなり、今回も妹を生命の危機に直面させたのみならず、王国全体を氷に閉ざしてしまう。

この点でエルサは任侠映画の主人公タイプといえる。
感情というものは、「我慢」「忍従」「自己抑圧」「滅私奉公」という方向では、コントロールができないのみならず、どんどん圧が高まって、あるとき暴発してしまうのだ。

ここのところを押さえておくと、ディズニーアニメ史上屈指の名場面とされる”Let it Go”歌唱シーンを十全に味わうことができるはず(もちろん歌詞が重要)。

〈真実の愛〉も誤解される


いっぽう、作中で危機に陥った人物や世界を救うキーワードとなるのが、〈真実の愛〉だ。これは登場人物たちによって何度か明言される。
おもしろいことに、こちらのキーワードも、登場人物がいったんは誤解したのちに、正しい解釈が行動によって示される。

誤解するのは、われらが愛すべき山男のクリストフだ。彼は、
「〈真実の愛〉こそが瀕死のアナを救う」
とトロールの長老パビーに教えられ、アナの婚約者であるハンス王子のキスがアナを救うと考えて、彼のもとにアナを運ぶ。この行動が事態をややこしくしてしまう。

「〈真実の愛〉イコール王子のキス」
というクリストフの解釈(思いこみ)は、旧来のディズニーヒロインアニメをメタ的に批評しているかのようだ。

『眠れる森の美女』だったなら、フィリップ王子がそうやってオーロラ姫を救っただろう。でも本作では、王子のキスに〈真実の愛〉は求めようがないのです。


「自己犠牲」〈真実の愛〉の正体


では「自己犠牲」〈真実の愛〉は、本作ではなにが正解とされるのか?
もちろん、すでに作品をごらんの方はご存じだろう。

未見のかたのためにネタバレを避けながら書いてきたが、ここだけは触れざるを得ない。その正解を示すのは、魔法の雪だるまオラフである。
彼がどういう行動を取ったかは触れないが、「自己犠牲」と〈真実の愛〉がここでイコールで結びつくということくらいのネタバレはどうか許してほしい。

オラフはもともと、最初の不幸な事故の前、仲よかったころのエルサとアナが作った雪だるまだった。
ってことを考えるとこれ、泣けてしょうがないところである。姉妹を教え導いてくれるのは、わだかまりが生じる前の「思い出」だったのだ。

以下、オラフに〈真実の愛〉の何たるかを教わったアナは、ついで自らが身を呈して(=自己犠牲)エルサを愛する側に回り、さらにそれを見たエルサがこんどはみずからの自己犠牲の履き違えを正し、暴走する雪と氷の魔力(=自己の感情)を制禦する手段を見出し、そして妹をも愛することができるようになる。

ああ、ドラマ界でいちばん険悪な姉妹である『ダウントン・アビー』のメアリとイーディスにだれか『アナ雪』を見せてやってくれよ!


自己価値感くらい自分で備給しようぜ


つまり〈真実の愛〉がアナを救うというのは、彼女が王子のキスに救われることではなく、彼女自身の行動が回り回って彼女を救うということ。

「こんなにがんばってる私」に酔ったあげくに我慢の圧力鍋が破裂して、制禦不能の感情を周囲に押しつけちゃう(=国を凍らせちゃう)とき、人は自己犠牲を履き違えている。
「こんな私をわかってほしい(=私にキスしてほしい)」と待ち構えているあいだは、人は〈真実の愛〉を履き違えている。
自己価値感くらい自分で備給できるようになって、はじめて人は責任ある行動をとることができる。

……なんて書くと説教臭くなっちゃうかなー。
なぜか親や異性や世間の評価に自己価値を置いてしまいがちな僕らジャパニーズピープルが目ん玉かっ開いて見といたほうがいい映画じゃないでしょうかね、これは。
(千野帽子)