奈良で留学生活を送った中国人男性が、東京で目にした写真展の案内をきっかけに当時の心情を振り返っている。

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帰宅途中の私の目に飛び込んできたのは、奈良県出身の写真家、入江泰吉の作品展の案内だった。私はすぐさま会場へと向かった。

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留学生として日本に来た私が奈良で生活していた頃、JR奈良駅を毎日のように通過していた。駅のよく目立つ場所にはポスターが貼り出されているのだが、最も頻繁に目にしたのが入江泰吉の「斑鳩の里落陽」と上村松園の美人画だった。

当時はインターネットが今ほど発達していない。国際電話をかけるには灰色の電話ボックスを探さなければならない時代だった。今でも覚えているのが1998年の夏の夜の出来事。サッカーワールドカップの生中継を見たかった私は観戦場所を探して奈良の街を自転車でさまよっていた。しかし、湿り気を帯びた通りにあったのは薄暗い街灯だけ。私の古都に対する憧れは閉塞感によって日を追うごとに消えて行き、心に重いものを感じるようになった。

東京に行きたいという私の願いがかなったのは2000年になる前だ。その後、奈良を経由して移動する機会が2度あったが、どちらもゆっくりと奈良の風情を楽しむ時間はなかった。ただ、ここ数年の生活であれこれ経験する中で、ふと「奈良にいた頃に、『住めば都』的な心の広さがあればもっと多くの景色を目にすることができたかもしれない。思い出ももっと生き生きとしたものになっていたかもしれない」という考えが胸をよぎることがある。現実の生活の中で「あの頃ああしていれば…」と考えてもどうしようもないのだが―。実際にできることと言えば、あの頃に戻れないことを嘆くことだけなのだ。

デジタル写真を見慣れた目でたまにフィルムを眺めてみると、その重さがしっかりと伝わって来る。近いうちに再び奈良を訪れ、斑鳩の落陽を撮ってみたいと考えている。

■筆者プロフィール:呂厳
4人家族の長男として文化大革命終了直前の中国江蘇省に生まれる。大学卒業まで日本と全く縁のない生活を過ごす。23歳の時に急な事情で来日し、日本の大学院を出たあと、そのまま日本企業に就職。メインはコンサルティング業だが、さまざまな業者の中国事業展開のコーディネートも行っている。1年のうち半分は中国に滞在するほど、日本と中国を行き来している。興味は映画鑑賞。好きな日本映画は小津安二郎監督の『晩春』、今村昌平監督の『楢山節考』など。