「でもブスだよね?」--仕事で評価されても地位を得ても、私たち女性はその一言で突き落とされてきました。それほど強く根付いた“ブス”という価値観が、近年のCMや企業動画の炎上を経て、少しずつ変わり始めているようです。それでも、いまだ“美人“であることを求められる現代社会。私たちはどうサバイブしていくべきなのでしょうか?

著書『セーラームーン世代の社会論』-->-->-->-->-->(すばる舎リンケージ)などで女性を論じてきた稲田豊史さんと、数回にわたり紐解いていく連載です。

いわゆる “赤文字系”雑誌の対極にある“青文字系”雑誌。青文字系読者は美人≒モテることを目標とせず、「個性」重視の生き方を選択してきました。今回は、容姿以外を磨く女性たちに焦点を当て、ジャイ子から女芸人まで「個性派ブス」の変遷をたどります。

“ブス”の象徴だった、ジャイ子が地位を得た方法

女性が自らの容姿を「及第点に達していない(≒ブスだ)」と認めざるを得なくなった時、そこで取る行動は概ね大きく2つある。

(1)「差」を埋める努力をする
:化粧、ファッション、痩身、整形などに心血を注ぐ。

(2)容姿以外の売りを磨く
:芸術、カルチャー、学問、仕事などに心血を注ぐ。

生まれつき及第点に達していない容姿を「小柄ゆえに負け続きの力士」にたとえるなら、(1)は稽古に励んで筋肉をつけ、技を磨くこと。(2)は体格の不利が能力値に影響しないタレント業などに転身すること――にあたるだろう。
 
というわけで、今回は(2)に含まれる「ブスの生存戦略」について考えたい。

前回*言及した『ドラえもん』に登場するジャイ子は、(2)を実践して成功した立志伝中の人だ。当初「忌み嫌われるブスの象徴」として登場したジャイ子は、連載が進むにつれて「マンガの才能がある文化系女子」として確固たる地位(人権)を獲得していったからである。

容姿で価値が測られる世の中に対して、ジャイ子は「文化系女子」として見事な「オルタナティブ」を体現した。「オルタナティブ」とは、「代替物、既存のものと取ってかわる新しいもの」という意味。角が立ちそうなことを説明するのに便利な、実に使い勝手の良い言葉である。この原稿内でもどんどん使っていきたい。

*「『ブス』はいけないこと? 美人に勝てない私たちが、生き抜くためには」

青文字系「ブスカワ」冬の時代から、三戸なつめの登場

『ドラえもん』が連載されていたのは1969年から1996年まで。連載終了から既に20年以上経っているが、この20年間、「ブス」という言葉の扱われかたは、ずいぶんと変わってきた。

市川実和子を筆頭とした青文字系雑誌のモデルたちが「ブスカワイイ」「ブスカワ系」と称されるようになったのは、90年代半ばごろだろうか。本人たちにとっては迷惑な話だが、そこには初期ジャイ子的な「不美人」ではなく、「メインストリームからは外れるものの、個性的で愛嬌をそなえた顔立ち」といったニュアンスが含まれていた。

食レポのコメントにたとえるなら、さしずめ「おもしろい味」。「おいしい/まずい」といった角の立つ二元論にとらわれない、絶妙の「オルタナティブ」。……やはり便利な言い草だ。

「個性派」を錦の御旗として掲げる青文字系雑誌ではあったが、2000年代後半は冬の時代だった。

当時は『CanCam』(小学館)などをはじめとする急進的モテ志向の赤文字系雑誌が隆盛を極めていたからだ。結果、老舗青文字系雑誌の双璧をなしていた『Zipper』(祥伝社)は2014年から月刊から季刊に、同じく『CUTiE』(宝島社)は2015年に休刊の憂き目に遭っている。

ただ、2010年代は赤文字系雑誌も軒並み一時の勢いを失った時期である。そんななか、2013年に創刊した新世代の青文字系雑誌『mer(メル)』(学研プラス)は現在に至るも好調だ。同誌発でブレイクした三戸なつめの象徴的イデタチ――低身長・前髪パッツン・オカッパ・ベレー帽――が、そこはかとなくジャイ子を彷彿とさせるのは、気のせいか?

三戸がいわゆる「ブスカワ」の系譜をたどっているとは思わない。が、赤文字系雑誌が担っていた、かつての主流「モテ系」とは一線を画した「オルタナティブ」を体現していることは明白。三戸は「かわいい or not」以前に「変わった子」であり、(食レポ的な意味で)「おもしろい」存在なのだ。

2000年代中盤 不美人を売りにした女芸人たちは?

2000年代中盤には、オアシズ・光浦靖子を筆頭とする女芸人ブームが到来する。造作のビハインドを自認しつつも、話術を中心としたパフォーマンスで一芸に秀でた彼女たちは、「(2)容姿以外の売りを磨く」文化系女子の一大勢力を形成してゆく。

しかも彼女たちの多くは、自らが不美人であることをむしろ積極的に「売り」としていった。無論、不美人な造作は笑いの入り口にすぎず、その先には卓越した芸が鎮座していることを忘れてはならない。男性芸人で言えば、トレンディエンジェルやバイきんぐ・小峠英二のハゲネタに同じ。

彼女たちは、「ブス」「デブ」「非モテ」といった自虐イメージを戦略的に活用し、他人に言わせることで、テレビ業界に「女芸人枠」を確保していった。たいへんガッツのある、快哉を叫ぶにふさわしい、肝の据わったサバイブだったといえよう。

非モテキャラが直面する「結婚してつまらなくなる問題」

ところが近年になって、彼女たちは予想もしなかった2つの問題に直面する。ひとつは「女芸人、結婚してつまらなくなる問題」だ。

結婚とは、辞書的な意味に倣うなら、相思相愛のパートナーと結ばれることである。彼女たちを愛するパートナーが実在する以上、「ブス」「デブ」「非モテ」といった自虐的笑い、おもに男性からの低評価を前提とした笑いは成立しにくくなる。

彼女たちがいくらルサンチマンを叫んだところで、欺瞞も甚だしいからだ。「え、だってあんた、夫いるからいいじゃん!」と言われたが最後である。

さらに言えば、パートナーがいると公言してしまった以上、他の出演者は容易に彼女を「ブス」と罵倒することができない。夫のいる女性の容姿をこき下ろして笑いに昇華するのは、かなり高度な技術を要するからだ。

一般的には祝福されるべきライフイベントである「結婚」が、彼女たちの職業上の持ち味を奪ってしまう。なんという皮肉だろうか。

たしかに、結婚・出産してママタレ化に成功した女芸人はいる。が、彼女たちは結婚・出産前の芸風を捨てた、もしくは結婚後に獲得した別の芸風――料理、子育て、夫婦ネタ――に武器を持ち替えた。

ただ、本当に根が深いのはもうひとつの問題だ。“ブス”という呼称自体のポリティカル・コレクトネスつまり「政治的に正しくない」問題である。

>>後編に続く

前回:<プロローグ>「ブス」はいけないこと? 美人に勝てない私たちが、生き抜くためには

稲田豊史