「編集長、産むことのメリットとデメリットを教えてください」今年で33歳になるワーカホリックなプロデューサーが、ワーママ編集長に詰め寄ったことからスタートした本企画。今回は、「自分の命より大切な存在がいる」という感覚について書いてみます。

産む「前」と「後」を比べた時、この感覚のあるなしが自分の考えかたに一番影響していると思うのです。

私(左)と海野P(右)

産んでから、みるようになった夢

週に5回はみる夢があります。

それは、娘が車に轢かれそうになる夢です。私は娘を救おうとして、毎晩のようにダンプカーやら、車体を低く改造した黒のワンボックスカーやら、白のポルシェやらにはねられて死んでいます。時には、スプラッタームービー「ファイナル・デッドコースター」シリーズのように、もっとエグい死にかたをする夜もあります。

本当に、娘が生まれてから、夢の中で何度死んだかわかりません。もう数えきれないほど死にました。

でも、これは全然悪夢じゃないんです。私が死ぬことで、毎回娘は傷ひとつなく助かるのですから。絶命した私は「よかった、無事で」と安堵しながら肉体を抜け出し昇天していくという、めでたし、めでたしな夢なのです。

娘が生まれてからというもの、これ以外の夢をみなくなりました。産む前は、空を飛びながら世界一周する夢とか、カエルの大群に追いかけられる夢とか、いろんな夢を見ていたのに、今やレパートリーはただ一つ「車に轢かれて死ぬ夢」だけです。

どうしても理解できなかった感覚

「子どもがいるって、どんな感じ?」
「いないのと、何が違うの?」

私も海野Pと同じように、何でも先に頭で理解しておきたいタイプなので、30歳を過ぎて「そろそろ産むか」と考え始めた時、宇宙飛行士に「無重力って、どんな感じ?」と聞くのと同じような感覚で、子どものいる人に聞いていました。

自分と同世代の人から、40代、50代、親の世代、そしてもっと上の人まで、いろんな人に尋ねてみましたが、みなさんの回答を総合すると、

「自分の命より大切な存在ができるのだから、(子どもがいないのとは)全然違う」

という結果となりました。

でも、当時の私にはやっぱり「自分の命より大切な存在ができる」という感覚が、全然ピンとこないのでした。まったく想像が及ばないのです。

私は生来とても自己チューな性格なので、恋人でも、これまで一度も「自分の命より大切」と感じたことはありませんでした。「この人がいないと、生きていけない」という感覚ならありましたが、じゃあ、その人のために死ねるかといえばNOでした。一緒に死ぬならまだいいけれど、この男の未来のために自分の未来を捨ててもいいと考えたことは一度もなかったのです。

ところが、産んだらやっぱりわかるんですよ、この感覚がストンと。娘のためなら、肝臓でも、眼球でも、心臓でも、皮膚でも、命でも、何でもあげます。躊躇なくあげます。「ちょっとティッシュ、ちょうだい」と頼まれて、「いいよー」っていうのと同じくらい簡単に差し出せます。

吹けば飛んでしまう「自分」という存在

自分の命より大切な存在がいる。

この感覚がインストールされたことで、確かに、物事の見えかたはガラリと変わりました。「自分」というものが、良くも悪くも、溶解していきました。

海野Pや私のような人間は、物心ついてからずっと、自分のために努力してきた人種です。自分のために勉強する、練習する、受験する、就職する、転職する……。恋愛や結婚だって、あれこれ頭で計算した上でリスクとメリットを天秤にかけ、自分にとって最良の選択をしようとします。

そうやって「自分」のために努力を重ねて、欲しいものを手に入れてきた私たち。

「自分」というものがあったから、ここまでこられた。

でも、しんどくもあるんです、そうやって「自分」というものに執着し続けるのは。

前回書いたように、いまだに出産や育児の経験をうまく整理できていない私ですが、産むことにメリットがあるとすれば、最大のメリットは「自分という存在が軽くなったこと」でした。

これまで書いてきたメリットやデメリットは、子どもが小さい時期に限られた話かもしれません。でも、このメリットはおそらく私が死ぬまで続くでしょう。

自己チュー女と毒親のはざま

次の瞬間にでも、ティッシュのように簡単に差し出せるほど、軽い存在となった自分。

そんな存在に固執するなんてバカバカしいと、頭でではなく、何か自分の中のとても深い部分でストンと理解しました。こう書くと、まるで人としての器が大きくなったかのようですが、そうではありません。単純に、「自分」というものとちょうどいい、心地のいい距離を持てるようになったんです。

今でも、些細なことにしょっちゅうカチンときますし、仕事で人とぶつかることもあるんですが、エゴや自意識に振り回されることは、ほぼなくなりました。組織の中の自分の役割として怒ったり、闘ったりはしますが、その場を離れると不思議なくらいスーッと忘れてしまいます。 

別に産まなくても、上手に「自分」と距離をとれている人もいると思いますが、私の場合、子どもでも産まなければ、この距離感にはなりませんでした。

「自分のため」から解放されたとしても、これが「娘のため」になっては、そのまま毒親コースに突入してしまうので、「自分」から幽体離脱した今の状態のままでいようと思います。

(ウートピ編集長・鈴木円香)