(写真=慎武宏)左から趙光洙コーチ、ホン・ミョンボ監督、池田誠剛フィジコ

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中国の杭州緑城を指揮する“韓国サッカー界のカリスマ”ホン・ミョンボ監督と、その右腕として監督を支える“日本人フィジカルコーチのパイオニア”池田誠剛コーチ。日韓という枠組みを超えた絆の強さについては過去のインタビューからも感じ取れたと思うが、その信頼関係を語る上で欠かせない人物がいる。

同じく杭州緑城でコーチを務める趙光洙(チョ・グァンス)だ。

ホン・ミョンボ監督と池田コーチも言っていた。

「私と池田さんの関係を語る上でグァンスは絶対外せません」(ホン・ミョンボ)

「グァンスがいなかったら私は韓国でしっかりした仕事ができなかったでしょう」(池田誠剛)

ロンドン五輪やブラジルW杯を経験した在日コリアン

日本と韓国の一流指導者たちがそう絶賛する趙光洙は、1981年に岐阜で生まれた在日コリアン3世だ。小、中、高と民族学校で学び、大阪体育大学に進学。大阪体育大学サッカー部ではキャプテンも務めた。

「テセ(鄭大世)は高校時代の2つ下の後輩で、ヨンギ(梁勇基)は同じ学校ではありませんでしたが同級生で、子供の頃からよくサッカーの試合をしました。僕が大阪体育大、ヨンギが阪南大学ということで、大学時代もよく対戦しましたね」

現在、Jリーグでは多くの在日コリアンが活躍している。

Jリーグだけでなく、在日初の韓国代表になった朴康造(元ヴィッセル神戸)のように韓国に渡った在日フットボーラーも多く、筆者も多くの選手たちを取材してきたが、その中でも趙光洙の経歴は異色だ。

大学卒業後にデンソーや佐川印刷SCなどJFLでプレーしたあと、2008年から単身韓国へ。韓国の実業団リーグ最高峰であるNリーグで活躍した後、2011年から通訳として韓国オリンピック代表コーチングスタッフになった。

2014年ブラジルW杯でも韓国代表の一員を務めている。

コーチングスタッフとはいえ、在日コリアンとしてオリンピックとワールドカップの両方を経験したサッカーマンは、おそらく趙光洙しかいないし、彼が初めてだろう。

特にホン・ミョンボ監督が率い、池田誠剛がフィジカルコーチを務めた韓国オリンピック代表では2012年ロンドン五輪で銅メダルに輝き、チームは“日韓ハイブリッド・スタイル”として高い評価を得たが、趙光洙はホン監督と池田コーチだけではなく、池田コーチと韓国選手たちの間を取り持つ“潤滑油”の役割を担った。

池田コーチも言っていた。

「私が韓国でしっかり仕事ができたのは、グァンスと韓国選手との間に信頼関係があったからだと思うんです。グァンスを通じて伝わるから、選手たちも私の声にしっかりと耳を傾けてくれた。そういう意味でグァンスには本当に感謝です」

日本で生まれ育った在日コリアンが、日本ではなく韓国社会で通訳を務めたのだから頭が下がる。

朝鮮半島にルーツがあるとはいえ、在日3世ともなれば生活習慣も価値観も日本に近いのだ。それだけに趙光洙も、日本人Kリーガーがよく口にする「日本と韓国の違い」に戸惑い、理不尽なことを突き付けられたこともあったことだろう。

韓国代表選手と池田コーチの“熱い涙”

Jリーグの現場では韓国人Jリーガーの通訳を務める在日コリアンが多いが、同じ通訳でも趙光洙は次元が異なる。

何しろ韓国で生活し、大勢の韓国人選手たちに池田のノウハウを伝えねばならないのだ。しかも、日常をともにするプロクラブではなく、選手が入れ替わり活動も断続的で、何よりも結果が求められる代表チームで、である。

責任も重大でプレッシャーも並大抵でなかったはずだ。

それでも趙光洙が韓国代表で信頼を勝ち取ることができたのは、彼が単に言語力が高かったり、コミュニケーション能力に優れていたためだけではなかったと思う。

選手たちとともに汗を流し、必要なら一緒になってボールを蹴って居残り練習にも付き合ってきたその誠実さがあったからこそ、プライドが高くこだわりも強い韓国代表選手たちも彼を信じ慕ったのだろう。

ロンドン五輪やブラジルW杯に出場した韓国代表選手に趙光洙のことを尋ねたことがあるが、そのときも誰もが「良いヒョン(兄貴分)です」と答えていたほどだ。

そのことを伝えると、趙光洙は少し照れながら言った。

「池田さんと韓国代表選手たちとの間に立って通訳をしながら特に意識したのは、“言葉”ではなく、“心”を伝えることでした。池田さんが何を考え、どんな“思い”で韓国代表のコーチを務めているのか。池田さんの情熱や“思い”をストレートに、しっかり届けることが自分の役目だと思って…」

ロンドン五輪やブラジルW杯を準備する過程で、趙光洙はホン・ミョンボ監督と池田コーチ、池田コーチと韓国代表選手たちの“心のキャッチボール”をアシストした。

プレーの出来や体調、ケガや移籍問題、さらには人間関係に悩む選手が池田に相談や助言を求め、不甲斐ない結果に終わった悔しさに耐えきれず池田の前で号泣する選手もいた。

その涙を見て池田ももらい泣きし、気づくと自分も泣いていたという。

そんな熱い信頼関係に直面するたびに、趙光洙は“橋渡し役”としての責任と喜びを感じたという。

筆者も以前、日本と韓国の若い選手たちが本音を語り合って友情を含めた“チェンマイの夜”に通訳として居合わせたことがあるが、そのときの感覚に近いと思った。
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在日コリアンである自分が日本と韓国のサッカー交流の現場でその友情を深める一助になれる。そこに大きな感動と希望を感じるのだ。

“境界線”に生まれた運命とそこで生きる歓び

もっとも、趙光洙は通訳のプロフェッショナルを目指していたわけではない。

彼が目指したのは、あくまでも“サッカーのプロフェッショナル”として生きることだ。

そのためにロンドン五輪後はジェフユナイテッド市原の強化部で学び、ブラジルW杯後はオランダのユトレヒトで指導者留学もした。その後は山梨学院大学サッカー部のコーチも務めている。

そんな趙光洙を中国に向かわせたのは、ホン・ミョンボ監督でもある。

趙光洙の指導者としての可能性を高く買っていたホン・ミョンボ監督は、「杭州緑城にコーチとして来てほしい」と要請。こうして彼は今、中国でプロ・コーチとしてのキャリアをスタートさせることになった。趙光洙は言う。

「中国では毎日が悪戦苦闘です(笑)。ただ、中国の選手たちも“アツい”んですよ。向上心が高く、良いものはどんどん吸収したいと意欲的。一度親しくなりわかり合えば、家族のような濃い人間関係も築ける。だから、僕は彼らに“ハート”でぶつかっています。言葉はまだ通じませんが、“ハート”でぶつかれば、心は必ず通じると思っていますから」

日本を知り、韓国も知り、何よりもその境界線に立って“橋渡し役”できることの意義を知る若者が、中国で踏み出した新たな一歩。ホン・ミョンボ監督の哲学と池田誠剛コーチのノウハウを吸収しながら成長続ける在日フットボーラーの挑戦にも、ぜひとも注目してきたい。

(文=慎 武宏)