鈴木清順著『鈴木清順 けんかえれじい』(日本図書センター)より

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 今月22日、『ツィゴイネルワイゼン』や『殺しの烙印』などで知られる鈴木清順監督が慢性閉塞性肺疾患のため亡くなっていたことが明らかになった。93歳だった。

 色鮮やかで独特な色彩感覚を筆頭とする傑出した画づくりは「清純美学」と呼ばれた。クエンティン・タランティーノ監督をはじめ国外でも信奉者は多く、最近でもデミアン・チャゼル監督が『ラ・ラ・ランド』のポップアートのような色合いは『東京流れ者』からの影響も含まれていると明かしていた。

「映画は絢爛豪華で派手で楽しければいい。だから、私の映画はしかめっ面して見てほしくない。私も大仰なメッセージを伝えようなどとは思っていない」(「週刊朝日」2002年4月11日/朝日新聞出版)と本人が語っている通り、鈴木清順は同じ戦中派の文化人でも、永六輔、大橋巨泉、水木しげる、野坂昭如ほどには戦争や平和についてメッセージを発信することはなかった。『春婦伝』という従軍慰安婦を主人公にした作品を撮ったりもしているが、作風も基本的には娯楽性・芸術性に重きを置く人で、直接的に社会派なテーマを扱った作品は多くはない。

 しかし、彼の映画をきちんと見ていけば、そのなかに「戦争」からの影響と怒りが拭いがたく存在することは一目瞭然だ。たとえば、代表作のひとつである1964年公開の『肉体の門』。戦後すぐの闇市のなか、身を寄せ合って何とか生き延びていく売春婦たちを描いたこの作品では、彼女らが戦争で家族を亡くしたことを告白し合うシーンや、立ちんぼの縄張りをめぐるケンカのなかで「民主主義だとか、八紘一宇だとか、そういうお題目はもうたくさんだよ!」と叫ぶシーン、野川由美子演じる売春婦が持っていたボルネオ島で戦士した兄の形見(出征の際に持たされた日の丸の旗)を宍戸錠演じる復員兵が頭からかぶり「麦と兵隊」を歌いながら涙するシーンなど、戦争によって大切なものを奪われ傷つけられた人々が描かれていた。

 彼の作品に戦争からの影響は間違いなく存在する。しかし、実は、戦争が清順に与えたものは「影響」なんてなまやさしいものではなく、その人生を180度変えてしまったものであったと、鈴木清順の弟で元NHKアナウンサーの鈴木健二は証言している。

 1923年に東京で生まれた清順は、勉強もできてスポーツも万能、加えて口数も多いガキ大将気質の少年であったという。逆に弟の健二は病弱で人見知りで無口。対称的な兄弟であった。しかし、それは兄が学徒出陣で兵隊にやられると一変する。

「母が「一分でいいから黙ってて」と頼むほど兄はお喋りで、学校では勉強のできるガキ大将。スポーツ万能で、陸上と水泳では「東京市学童十傑」に入るほどでした。それに較べて私は病弱で人見知りで無口、運動はからっきしダメ。運動会が大嫌いで、雨乞いをしていました。
(中略)
 ところが、戦争を契機に対照的に性格が入れ替わり、物静かな兄と活動的な弟に激変するのです。
 昭和十八年、兄は旧制弘前高校にいたのですが、学徒出陣で徴兵され、フィリピンに向かいます。門司を出た船団は十三隻あったそうですが、無事現地に辿り着いたのはわずか二隻。マニラから日本に帰る輸送船ではグラマン機の襲撃を受けてたくさんの仲間を失い、兄自身も海を漂流したそうです。喋る相手もおらず、自己内対話を繰り返さざるを得ない戦場が、内省的な兄に変化させたのかもしれません」(「文藝春秋」09年8月号)

 加えて、その戦争体験は、彼の映画づくりにも影響を与えているのだろうと健二は分析する。

「兄の作品を観ると、戦争体験の影響が分かりすぎるくらい分かるときがありますよ。たとえばあの明るい色彩感覚。実家が工場で生活環境に色が乏しかったことの反作用もあるかもしれませんが、やはり死生をさまよう中での「色彩への渇望」に他ならないだろうと思います。歌舞伎の型のような静止画が出てくるのも、人間の感情が一瞬凝縮してしまう戦争へのアンチテーゼに見えます。本人に聞いたことがないから当っているかどうかは分かりませんけどね」(前掲「文藝春秋」)

 事実、それは監督本人も認めていた。鈴木清順作品といえば、物語の余韻も何もなく唐突に場面が切り替わったり、脈絡なく話が飛んだりすることが多く、それがときに彼の映画は難解であると言われる大きな要因となるが(『殺しの烙印』を見た日活の社長があまりにアバンギャルドな映画の展開に激怒し会社を解雇された逸話はあまりにも有名)、それは清順にとっては突飛なことでもなんでもなく、あくまで自然なことであると本人がインタビューで語っている。

「わからない映画を作っているつもりはなかったね。ボクは映画の中で感情をぶった切ってきただけ。感情を長い間引きずることなどないと思っていたからね」(「週刊読売」1988年8月21日号/読売新聞社)

 なぜそのように感情を脈絡なく飛ばし、ぶった切る必要があるのか。その原風景は戦地での体験にあった。ひとつの感情を長い間引きずることが死に直結する過酷な戦争での思い出がその根底にはあったのだ。

「私の戦争は逃げの連続だったね。出征した途端に襲撃され、逃げることから始まった。攻めたことは一度もない。武器は軍刀だけで発砲したこともなかった。だから、ひたすら逃げ回ったね」
「結局、運は外から与えられてきたんですよ。努力してもムダだった。長く悲しむことも追憶に浸ることもなかった。すぐに飛行機が飛んでくるんだから。あれから一歩も進歩してないなあ。ヒューマンタッチも嫌いだし」(前掲「週刊読売」)

 先ほどのインタビューで弟の健二は「歌舞伎の型のような静止画が出てくるのも、人間の感情が一瞬凝縮してしまう戦争へのアンチテーゼに見えます」と兄の映画の手法について分析していたが、それは正鵠を得ていたわけだ。

 夢のなかの話なのか、それとも現実のなかの話なのか、映画を見ている者を惑わせる鮮やかで独特な作品づくりの裏には、戦争での過酷な体験と怒りと無常観が大きな影を落としていた。そう考えながら改めて作品を見直すと、また違った味わいが出てくるのである。
(新田 樹)