笑わぬ老親の介護 なぜイライラするか?

写真拡大

認知症の高齢者向けにドッグセラピーを導入する施設。犬の癒し効果は絶大だ。人間もそれに学びたいが、なぜかイライラしてしまう――。

■なぜセラピー犬は認知症患者を笑わせられるのか?

埼玉県川越市にある「トワーム小江戸病院」は、認知症の症状を改善する方法のひとつとしてドッグセラピーを取り入れています。その様子を見学させてもらいました。

案内されたフロアには、車椅子に座った3人の患者さんと、3組のドッグセラピストと犬がいました。セラピードッグはそれぞれのセラピストが飼育している愛犬です。

奥の窓際にいる男性患者はおとなしく座っているラブラドール・レトリバーの頭を黙って撫でています。犬の方も、あごを患者さんの膝にもたせかけ、気持ちよさそうにしています。その隣にいる女性患者はトイ・プードルを抱っこして微笑んでいます。そして、もうひとりの女性患者は、足元にいるスピッツを笑顔で見ながら、「私も昔、スピッツを飼っていたのよ。この子はいくつなの?」などとセラピストと昔話を交えた会話をしています。

3人とも認知症の症状が出ているとのことですが、会話は成立していましたし、表情も穏やか。とても認知症の患者さんとは思えませんでした。

認知症の症状には記憶障害はもとより、日時や場所の感覚が失われ、自分が置かれた状況を判断できない見当識障害、言語機能が失われる失語、五感による認知力が衰える失認、目的とする行動の方法が分からなくなる失行といった高次脳機能障害、気持ちが落ち込んでやる気を失う抑うつなどがあるといわれますが、ここで犬と触れ合っていた3人の患者さんに、そうした部分はまったく感じませんでした。笑顔で犬に触れ、普通に会話をしているのですから。

セラピストの篠原知子さんは言います。

「記憶が改善されることはないようですが、心が穏やかになられることは確かです。ワンちゃんと触れ合っている時の患者さんの写真を撮って、面会に来られたご家族にお渡しすることがあるのですが、あるご家族は写真を見た瞬間、ビックリされました。“お母さんが、こんな笑顔を見せるなんて信じられない”と。ご自宅で介護をされていたときは、いつも無表情。すべてを拒絶する感じで会話も成り立たなかったそうです。それが別人のように笑顔を見せている。ドッグセラピーの時は、よくお話もされますよと伝えると、ご家族も喜んでおられました」

■なぜ犬のように無邪気に老親と接することができないか?

同病院には5人のドッグセラピストが常勤。患者さんは毎日、犬と触れ合うことができるそうです。また、作業療法士とともにセラピー犬を使ったレクリエーションをすることもあるとか。患者さんが投げたボールを犬が取りに走り、くわえて戻ってこさせるものなどがあります。

鈴木貴勝副院長がその効果を語ってくれました。

「認知症の改善には適度な刺激が必要です。それもできるだけ自然のものから受ける刺激がいい。そのひとつがドッグセラピーです。触れば手のひらから体温が伝わってきますし、息づかいも感じる。ボールを使ったレクリエーションでは手を使いますし、自分の指示で犬がボールを取りに走り、くわえて戻ってくる姿には喜びを感じる。体を動かし、心も動く。これが症状の改善につながるのです」

篠原さんは、患者さんを前向きにする効果もあるといいます。

「歩ける方には病院の敷地内をセラピー犬と散歩していただくことがあるのですが、車椅子の患者さんには“私もワンちゃんと散歩がしたい”ということで、歩行のリハビリに懸命に取り組まれている方が数名いらっしゃいます」

セラピードッグの存在が、患者さんの気持ちを前向きにさせているわけです。

8年前の開院当初からセラピストを務めている小林美千代さんは、認知症が改善された患者さんを数多く見てきました。その経験からドッグセラピーが効果を生む理由を次のようにとらえているといいます。

「セラピー犬は、ありのままの自分を受け入れてくれるのです。患者さんから見て犬は上の存在ではないし、かといって下というわけでもありません。何かしてあげようと近づいてくることも、ご機嫌を取ることもない。勝手気ままに眠ければ寝てしまいます。気をつかう必要がない安心できる存在だから心が解放されるのだと思います」

人間ではこうはいきません。

もちろん介護に人の手は欠かせませんが、人には感情と、それを表わす言葉があります。たとえば家族が介護する場合。家族は認知症になる前の健康な頃の姿を知っていますから、わけのわからないことを言ったりしたりするのを見るとやりきれない思いになります。それで思わず上からものを言ったり、言葉を荒げてしまったり。

また、ご本人も前の自分ではなくなっていることに絶望し、苛立っている部分があるでしょうし、子供に世話をかけている負い目もどこかにあるでしょう。そうした精神的なストレスによって殻に閉じこもったり、問題行動をしてしまったりするのではないでしょうか。

■セラピー犬のいる高齢者施設に学ぶ「介護のコツ」

ヘルパーなど介護サービスを行なう人たちは対応の仕方を心得ていますが、規定の時間内に行う仕事ですから、介護される側も言われたことには従わなければなりませんし、緊張もするはずです。

その点、犬には気をつかわなくていいし、負い目を感じることもない。ありのままの自分を受け入れてくれる犬と接することで心が開かれ、笑顔を取り戻すというわけです。

ところで、ドッグセラピーでトラブルが起きることはないのでしょうか。

「稀にではありますが、犬を抱っこする時に強い力を入れる方がいます。別に悪気ではなくて、力の加減がわからなくて起こることなのですが、犬はビックリしますし、ケガをする危険もあります。ですから、そういう傾向がある方には、セラピストが前もって握手をしてみて、力の入れ具合は大丈夫か確かめます。また、犬に触れる際、撫でることから始めるといった配慮をしています」(篠原さん)

ここで気になるのは犬の側のストレスです。

「ストレスを感じることはあると思います。セラピー犬には人懐っこいという適性があるコがなるので滅多にないのですが、触られるのを嫌がるとか逃げ腰になるといったいつもと違う反応をすることがあります。私たちセラピストは、いつも一緒にいるパートナーですから異常がわかる。犬の心身の健康も大事ですから、そういう時は“下がります”と言って休憩所に戻るようにしています。その代わりに休憩所にいた犬を連れていくこともあります」

同病院では、こうした細やかな配慮のもと、ドッグセラピーが行われています。実際にドッグセラピーが行われている現場を見て、セラピストの話を聞き、認知症の症状を改善する効果があることを実感しました。

しかし、ドッグセラピーが行われている高齢者施設や病院はまだ少数。いいものであるはずなのに、全国に拡がっているとはいえません。

ドッグセラピーを行なうにはいくつかのハードルがあるといいます。まず、生き物である犬の管理を誰がするのか、という問題があります。高齢者は免疫力が落ちているので、衛生面には細心の注意を払わなければなりません。

そして何より大きいのは費用の問題です。犬の購入、飼育、管理には世話をする人の人件費も含め、かなりの負担になります。同病院ではセラピストの愛犬をセラピー犬にする形をとっているため管理や衛生面はクリアしていますが、専従のセラピスト5人の人件費がかかるため、採算が合う事業ではないとのこと。それでも行っているのは「やってみなければ何も生まれない」という同病院の運営方針からだそうです。

いくつものハードルを乗り越え、ドッグセラピーを行なっている施設は同様の姿勢があるのではないでしょうか。認知症で笑顔を忘れてしまった方(とくに犬好きの)のご家族は施設探しの条件にドッグセラピーを入れて検討してみるのもいいかもしれません。

(ライター 相沢 光一 トワーム小江戸病院=写真提供)